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盛期ルネサンス
1500年代

初期ルネサンス時代、画家たちはゴシック、ビザンティンの絵画様式から抜け出そうとしていた。自然や人間をありのままに、写実的に再現しようとした。

レオナルドが科学的な研究をして、ついに中世絵画との決別を果たし、盛期ルネサンスを出発させた。

ラファエロはレオナルドの優美さとミケランジェロの逞しさを調和させ、写実だけではなく、精神性をも表現しようとし、理想主義的な古典主義様式が確立させた。



一方、初期ルネサンスの中心地であったフォレンツェは衰退に向かった。15世紀後半から16世紀前半にかけて、芸術家の流出が相次いだ。

フィレンツェで活躍していたレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロたちは、ローマやミラノへ舞台を移し活躍した。

1492年、メディチ家の大ロレンツィオが死去した。フィレンツェは政治経済の支えを失ったのである。

フィレンツェにおいて、次に待っていたのが、ドメニコ会サヴォナローラの粛清政策であった。しかし、これも長くは続かず、彼の教えは人々を惑わす悪魔の声であるとされ、1499年、火あぶりの刑に処せられた。

迎えた16世紀、フィレンツェの人々はようやく、終末観から開放され、都市は再興を目指した。

そんな折、1500年、レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェに帰ってきた。そのころ、ミケランジェロが活躍を始め、1504年にはラファエロが移住してきた。

フィレンツェに再び、活気が戻った。



中世末期に教皇庁がアヴィニョンに移っていた時代、ローマは荒廃していた。教皇がローマに帰ってからは、ローマは再び、繁栄を取り戻した。

ローマでは1500年の大聖年の行事が盛大に行われ、復興が計られた。

1503年、ローマではユリウス二世が教皇となった。ユリウス二世は、勢力拡大に力を尽くした。

当時、教皇領は周辺の君主たちに脅かされていたし、ヴェネツィアは教皇領のいくつかを占領していた。

即位するとすぐに、フランスと同盟を結び、ペルージャやボローニャを服従させた。

次いで、ドイツ皇帝マクシミリアン、フランス国王ルイ12世、スペイン国王フェルディナンドと同盟を結び、強力だったヴェネツィアを征服した。1509年であった。

次には、フランスの勢力を恐れて、敗北させたヴェネツィアと反フランスの同盟を結んだ。


ユリウス二世は、サン・ピエトロ大聖堂の再建を計画した。1505年、フィレンツェからミケランジェロをローマに呼び寄せた。1508年には、同じくフィレンツェで活躍していたラファエロを、ローマへ呼び寄せた。

ラファエロ、ミケランジェロもサン・ピエトロ大聖堂の設計に加わっている。起工からほぼ一世紀後、17世紀中頃に完成した。世界で最も大きく、豪華な教会となった。

ユリウス二世は、サン・ピエトロ大聖堂やヴァティカン宮の装飾のために、多くの芸術家をローマに招いたのである。


1513年、ユリウス二世のあとにレオ十世がローマ教皇となった。

レオ十世はメディチ家の出身で、信仰は厚くはなかったが、文芸と芸術の愛好者であった。莫大なお金を芸術品に注ぎ込んだ。

こうした、16世紀前半の復興と繁栄がルネサンス芸術の基盤となり、この時期、頂点を向かえるのである。

レオ十世は、フッガー家への借金返済と、サン・ピエトロ聖堂改修の資金を集めるため、免罪符を売り始めた。

このことで、ドイツでは、1517年、ルターが口火をきった、プロテスタントの宗教改革が始まり、それに続いて、カトリック側の反宗教改革が興った。キリスト教の世界は大きく揺れ動いていた時期である。

アンドレア・デル・ヴェロッキオ ( 1435-88)
レオナルド・ダ・ヴィンチ (1452−1519)
ベルナルディーノ・ルイーニ ( 1480-1532)
ミケランジェロ・ブオナローティ (1475−1564)
ラファエロ・サンツィオ (1483−1520)
ソドマ (1477-1549)
ペルジーノ  ( active 1478-1523)
ジョルジョーネ  (1477-1510)
ティツィアーノ  ( 1488-1567)
アンドレア・デル・サルト  ( 1486-1530)
ティントレット  ( 1518-1595) 
ヴェロネーゼ  (1528-88)

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