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レオナルド・ダ・ヴィンチ | ||||||||
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(1452-1519) | ||||||||
イタリア 盛期ルネサンス | ||||||||
ルネサンスが生んだ天才。 まるで底なし沼のような叡知と冷徹な理性である。 レオナルドの履歴には「感情」というものがどこにもない。 私生児であったが、父親のセル・ピエロ・ダ・ヴィンチが亡くなったとき、その日時を記入しただけであった。 20年近く仕えたミラノのルドヴィコ・イル・スフォルツァが仏軍に捕えられて処刑された。記入は事実の記録のみであった。 近くの山頂から貝殻の化石が発掘された。ノアの洪水が実証されたと人々が信じた。 しかし、レオナルドはそのナンセンスを笑った。地殻変動の理論を展開しながら。 19世紀に古生物学が誕生する三百年も前である。 いったいどうやって、そのように合理的に、冷徹に判断していけたのだろう。 人体解剖では、その不気味さに耐えられないようでは立派な画家になれないと、己を戒める。 盗癖のある弟子サライを解雇せずに面倒を見て、彼を毎日観察し、盗難の日記を書いた。サライはフランスに行くときも一緒であった。 レオナルドは『絵画論』という本も書いている。絵画は詩や音楽や彫刻に比べて、優れた芸術であり、学問にも優越する、と考えた。絵画は知的な活動の所産であるが、彫刻は肉体労働でしかないと。ミケランジェロへの当てつけでもあった。 フィレンツェ領内のヴィンチ村で生まれた。父親は有能な公証人セル・ピエロ。母カテリーナはレオナルド出産後、同じ村のアントニオ・ディ・ピエロと結婚。父親もツィレンツェの良家の娘アルビエーラ・アマドーリ(当時16歳)と結婚。レオナルドはこの16歳の継母に育てられた。 アンドレア・デル・ヴェロッキオはフィレンツェで最も有能な彫刻家で、工房を営んでいた。ブロンズ鋳造、各種工芸、絵画、建築とあらゆるジャンルをこなす工房であった。レオナルドはこの工房に入門する。いつ頃このヴェロッキオ工房を離れ独立したのかははっきりと分からない。 1476年4月〜6月に、サルタレッリ事件が起こった。24歳のレオナルドは男色のかどで訴えられる。同時に4人の若者が訴えられたが、レオナルドはその一人だった。訴えられた4人の若者の中に名家トルナブオーニの子弟がいたこと、レオナルドの父親が辣腕の公証人だったおかげで、無罪放免となった。 1482年末から83年頃、レオナルドはミラノへ旅立つ。『東方三博士の礼拝』は未完のまま残された。ルドヴィコ・イル・モーロの宮廷画家として17年間ミラノで活躍する。この間『岩窟の聖母』『最後の晩餐』『白貂を抱く貴婦人』など制作。 1499年10月、フランス軍がミラノを占領。ルドヴィコ・イル・モーロの失脚とともにレオナルドはミラノを離れ、フィレンツェへ戻る。この頃ミケランジェロが『ダヴィデ』を完成させ、名声を確立していた。2人の天才が激しくぶつかり合うことになった。1500年から1506年までフィレンツェに留まり、『聖アンナと聖母子』『アンギアーリの戦い』『モナリザ』を制作する。 1506年6月、ミラノに戻る。フランスのミラノ総督シャルル・ダンボワーズの招きだった。1507年、フランス国王ルイ12世がミラノに入城。レオナルドは宮廷画家兼技師に任命された。 1513年、教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチの招きでローマに移住。ヴァテカンのベルヴェデーレ宮に居室を与えられる。 1516年、ジュリアーノ・デ・メディチ没。その後フランス国王フランソワ一世の招きで、アンボワーズ近郊のクルーの館で最後の三年間を過ごす。 1519年5月2日レオナルドは67歳で世を去る。遺言書には全手稿と絵画は最後までレオナルドの忠実な弟子だったフランチェスコ・メルツィに贈られた。 |
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ダ・ヴィンチ 【 受胎告知 】 1472-1475 | 98 x 217 cm | ウフィツィ美術館 フィレンツェ | ||||||||
レオナルドの最初の作品。以前はフィレンツェ郊外モンテ・オリヴェートのサン・バルトロメオ聖堂にあり、ドメニコ・ギルランダイオの作品とされていた。現在では異論なくレオナルドの作品とされている。 | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 ジネヴラ・デ・ベンチ (リヒテンシュタインの貴婦人) 】 1474頃 | 38,8 x 36,7 cm | ワシントン・ナショナル・ギャラリー | ||||||||
異様に冷やかな表情には、レオナルドが女性に対して感情移入を拒否していることを示す。どこかに拒絶感が働いている。 | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 ブノワの聖母 (幼児キリストに花を差しのべる聖母) 】 1475-78 | 50 x 32 cm | エルミタージュ美術館 、サンクト・ペテルブルク ロシア | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 カーネーションの聖母 (幼児キリストにカーネーションを差しのべる聖母) 】 1478-80 | 62 x 47,5 cm | アルテ・ピナコテーク ミュンヘン | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 聖ヒエロニムス 】 1480 | 103 x 75 cm | ヴァティカン宮美術館 ローマ | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 東方三博士の礼拝 (未完) 】 1481-82 | 246 x 243 cm | ウフィツィ美術館 フィレンツェ | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 白てんを抱く貴婦人の肖像 】 1483-1490 | 54x39cm | チャルトリスキ美術館、クラコフ | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 岩窟の聖母 (聖母と幼児ヨハネ、幼児キリスト、天使) 】 1483-86 | 199 x 122 cm | ルーヴル美術館 | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 音楽家の肖像 】 1490 | 43 x 31 cm | アンブロジアーナ美術館 ミラノ | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 貴婦人の肖像 (ベル・フォロニエール) 】 1490 | 63 x 45 cm | ルーヴル美術館 | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 リッタの聖母 (授乳の聖母) 】 1490-91 | 42 x 33 cm | エルミタージュ美術館 | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 最後の晩餐 】 1498 | 460 x 880 cm | ミラノ サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ聖堂 | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 モナリザ 】 1503-1506 | 77 x 53 cm | パリ ルーヴル美術館 | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 岩窟の聖母 】 1503-1506 |189.5 x 120 cm | ロンドン・ナショナル・ギャラリー | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 聖母と幼児キリスト、聖アンナ、幼児聖ヨハネ 】 1507-08 |139.4 x 101.3 cm | ロンドン・ナショナル・ギャラリー | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 女性頭部 】 1508 | 27 x 21 cm | パルマ国立美術館 イタリア | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 聖アンナと聖母子 】 1510 | 168 x 130 cm | パリ ルーヴル美術館 | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 荒野の聖ヨハネ (バッカス) 】 1510-15 | 177 x 115 cm | ルーヴル美術館 | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 洗礼者ヨハネ 】 1513-16 | 69 x 57 cm | パリ ルーヴル美術館 | ||||||||
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ダ・ヴィンチ 【 自画像 】 1512 Red chalk 33.3 x 21.3 cm トリノ王立図書館 | ||||||||
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