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新古典主義   18世紀中葉から19世紀初頭

時代は18世紀中期、イギリス産業革命の真っ只中、そしてフランス革命へと続く、大変動期である。絵画の世界も、対立する二つの流派に分かれていく。新古典主義とロマン主義である。

貴族的なロココバロックの感情的なスタイルがフランス革命によって、衰退する。その反動で出てきたのが、新古典主義である。古代ギリシアとローマ文化の「高貴なる単純と静穏なる偉大」を復興させようという運動であった。

18世紀中期に始まった新古典主義の動向は、美術アカデミーのなかで、形骸化していき、19世紀初頭には下火になってしまう。

新古典主義は、19世紀のアカデミック・アートへと受け継がれていく。

[イギリス]
 18世紀のイギリス絵画は、ロマン主義と新古典主義が入り混じっていた。一方で、叙情的なトマス・ゲインズバラの作品があり、もう一方では、教養の高い、古典主義を目指した、ジョシュア・レイノルズがいる。「理性の時代」として知られるように、絵画の分野でも、理知的で論理的なものを目指した。 {ロイヤルアカデミー} {アメリカ独立宣言1776}
トマス・ゲインズバラ(1727−88)
アラン・ラムジー (1713-84)
ジョシュア・レノルズ (1723-92)
ギルバート・ステュアート (1755-1827)
ベンジャミン・ウエスト (1738-1820)
ジョン・シングルトン・コプリー (1738-1815)
ジョージ・スタッブス (1724-1806)

[ スペイン ]
 18世紀、最も偉大な芸術家といえば、ゴヤである。圧力に屈することなく、決断力のある人間であった。初期はドイツ生まれの新古典主義画家 アントン・ラファエル・メングスの影響を受けたが、ゴヤは自身の画風を、スペイン人の見方で、確立して行った。
アントン・ラファエル・メングス (1728-79)
フランシスコ・デ・ゴヤ (1746-1828)

[フランス]
 新古典主義は18世紀後半にフランスから出てくる本来的な形になるまでは、一貫性がなかった。新古典主義が画家の中に、明らかに主義として、確立してくるのは18世紀中頃である。

イタリアのローマは、新古典主義者の思想の源泉となった。

1738年に始まったヘルクラネウムの発掘、1748年に始まったポンペイ発掘は、18世紀の古代趣味をもたらした。

その200年前、ルネサンス期の古代趣味との違いは、資料の量である。数多くの研究書、旅行記、版画集が発売された。旅行も、ルネサンス期よりは、格段に容易になっていた。

新古典主義絵画の基礎となったのは、ドイツの美術史家ヴィンケルマンの著書『ギリシャ芸術模倣論』と『古代美術史』であった。

理想的な美、完全な美、普遍的な美を求めるためには、古代人を模倣することが、唯一の道である、と説いた。

ロココ趣味とは、完全に対立する、厳しい様式が新古典主義である。モットーは「高貴な単純さと静謐な偉大さ」で、ヴィンケルマンが、ギリシャ芸術の特質と考えたものである。

新古典様式を確立したのは、ダヴィッドである。



政治的には、18世紀末から19世紀にかけて、フランスは1789年に始まったフランス革命、イギリスから始まった産業革命と、混乱を極めた時代である。

ナポレオンの第一帝政(1804−1814)、王制復古(1814−1830)、七月革命で生まれたルイ・フィリップの立憲君主制(七月王制ともいう)(1830−1848)、二月革命の結果の第二共和制(1848−1852)。

ざっと挙げても、究極な混乱、崩壊が続いた時代であった。

一方、産業革命によって、ブルジョワジー(中産市民階級)が力を持ってきた時代でもある。

ブルジョワジーは、それまでの教会や宮廷に代わって、絵画の買い手として、経済の担い手として、無視できない存在となる。

いかに、歴史画の格が高くても、一般の人々に受け入れられないと、画家は経済的に困窮してしまうようになった。肖像画、風景画、静物画の数が、急激に多くなったのも、この時期である。

大衆社会が確立しつつあったのである。

美術の世界は、ロマン派と新古典派が論争していた時代でもある。


アカデミーは革命政府によって、特権的だとされ、1792年、いったん、廃止される。三年後、翰林院(かんりんいん)の一部として復活した。ダヴィッドがこの改革に活躍した。

王制復古時には、美術アカデミーとして、復活した。ルイ18世が、旧体制への復帰を目指したからである。この時代にすでに、新しい芸術運動としてロマン主義が登場している。

以後、美術アカデミーは、19世紀においては、それほど大きいものではなくなった。1830年代ころから、否定的な意味での「アカデミスム」という用語が用いられるようになった。
ジャン・レストゥー(2世)(1692-1768)
クロード=ジョセフ・ヴェルネ (1714-1789)
ジャン=バティスト=マリー・ピエール
ジョゼフ=マリー・ヴィアン (1716-1809)
ガブリエル・ジャック・ド・サントーバン(1724-1780)
ルイ=ジャン=フランソワ・ラルグネ(1725-1805)
ユベール・ロベール(1733-1808)
ニコラ・ベルナール・レピシエ(1735-1784)
ルイ・ガブリエル・モロー(老モロー)(1740-1806)
フランソワ=アンドレ・ヴァンサン (1746-1816)
ジョセフ=ブノワ・シュヴァ (1747-1807)
ジャック・ルイ・ダヴィッド (1784-1826)
ピエール=アンリ・ド・ヴァラシエンヌ (1750-1819)
ピエール・ポール・プリュードン(1758-1823)
ジャン=ジェルマン・ドルーエ(1763-1788)
ジロデ=トリオソン(1767-1824)
フランソワ・ジェラール(1770-1837)
アントワーヌ・ジャン・グロ(1771-1835)
ジャン-オーギュスト-ドミニク・アングル (1780-1867)