ショッピング | 西洋絵画史 | 女流画家 | ギリシャ神話 | 聖書の物語 | 文学 | 画像使用と著作権 | リンク集 |
画家名・アーティスト名一覧 Artist INDEX |
あ い う え お | か き く け こ | さ し す せ そ | た ちつ て と | なにぬねの |
は ひ ふ へ ほ | ま み む め も | やゆよ | ら り る れ ろ | わ |
西洋美術史年表 絵画史別 画家インディックスはこちら |
エドヴァルド・ムンク | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポスターはこちら | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
( 1863-1944) ノルウェイ 表現主義、世紀末芸術 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
表現主義の先駆者。 父親は医者。 母親はムンクが5歳のときに亡くなる。 14歳のとき、姉も亡くなる。二人とも結核であった。 1881年、オスロのデザイン学校に入学。この頃ノルウェー絵画は、写実主義様式が主流だった。 1888年、パリに出た。アカデミズムの画家レオン・ボナのアトリエで学んだ。同時にマネや印象派の作品に触れ、ファン・ゴッホにも影響を受けた。ゴッホの渦巻く筆使いは、ムンクの不安をかき立てる絵画の中で使われている。そこから実験的な作品が始まる。「病める少女」「春のめざめ」はこの年に描き始められている。 1892年、ベルリンの芸術家協会に招かれ、作品を公開した。しかし、会員投票によって中止となり、ムンクの展覧会は1週間で閉幕となる。 この騒ぎがきっかけで、マックス・リバーマン率いる「分離派」が結成となる。 ムンクはこれ以後1908年までドイツに滞在する。同時にパリの「ルヴュ・ブランジュ」誌を中心とする象徴主義グループとも交流を持つ。詩人マラルメにもこの時期会っている。 1908年、神経性の病のため祖国ノルウェーに戻る。同時にムンクの象徴主義の終わりでもあった。 いつも病気や狂気、死にとりつかれていた。その不幸が大きければ大きいほど、ムンクは、その芸術は、自伝的な要素を強めていった。自分の心理的弱点を、感動的な作品創造に利用した。 ムンクの暗く、不安な精神世界を扱った作品は、ストリンドベリ、イプセン、ニーチェら、当時の文学や思想に通じるものでもある。 1889年、パリに出た翌年、「もう読書をする人々や編み物をする婦人の絵は描かない。これからは息づき、感じ、苦しみ、愛する生きた人々を描く」として、「嫉妬」「ヴァンパイア」「マドンナ」などを描く。 ムンクの屈折した女性関係はファム・ファタル(宿命の女)として現れる。男を誘惑し、翻弄し、破滅へ追い込む女である。男女の愛を描くのではなく、「愛の葛藤」を描いた。 ムンクは若いころ端正な顔立ちで、長身な外見で、町を行けば女性が振り返るほどの美青年だったという。 そんなムンクなのに、なぜか不倫の恋ばかりして、嫉妬と不安に苦しむ道を選ぶ。 30歳頃のムンクが出会ったのは、ダグニー・ユールである。四角関係である。彼女は何リットルものアブサンを顔色一つ変えず飲み干し、夫がいてもまわりの男たちと愛し合い、男たちを嫉妬の暗い闇に引き込んだ。ロシアの青年が狂ったように彼女を愛し、ユールはこの青年にピストルで撃たれて死んでしまう。 1899年には富豪の娘トゥラ・ラルセンと出会い、恋に落ちる。36歳頃のムンクである。しかし39歳の時、ムンクは彼女にピストルで撃たれて怪我をする。結婚を望むラルセンだったが、ムンクは孤独で自由な創作中心の生活を捨てようとしなかった。 この激しい恋のピストル事件から、徐々にムンクは神経を病んでいく。 ムンクの芸術は、表現主義者、キルヒナーなどのドレスデンの「ブリュッケ派」に大きな影響を与えた。 1908年、祖国ノルウェーに帰って後約35年間には、オスロ大学講堂の壁画など大作を描いたが、多くは肖像や働く労働者などを描き、象徴主義時代の表現力はなかった。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
残念ながら、著作権の関係上、画像を載せられません。下のバナーはそれぞれ、画像が見られるサイトにリンクしてあります。そこから、御覧下さい。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後期印象派へ戻る | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||