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アメデオ・モディリアーニ
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(1884-1920)
イタリア   エコール・ド・パリ

イタリアから、パリに移住してきたアウトサイダーは、あまりに早く逝ってしまった。ハンサムで、酒びたりの若い男であった。貧困の絶望を、表に出すことをひどく恥じていた。

モディリアーニの作品には、ゆったりとした優雅さがある。独自のスタイルを洗練していき、優雅さを加え、アラビア風の装飾のように、形を単純化して組み立てていった。
イタリア、トスカーナ地方リヴォルノ生まれ。ユダヤ系イタリア人。
幼い時から病弱であった。

1903年、ヴェネツィアにある美術研究所に入学。

ヴェネツィアは1895年からヴェネツィア・ビエンナーレで、新しい芸術を紹介していた。フランス印象派、ラファエル前派、クリムト、アール・ヌーボーなどを紹介し、モディリアーニも刺激を受けただろうと考えられる。

モディリアーニはベネツィアで、ジョバンニ・パピーニ、アルデンゴ・ソフィッチ、ウンベルト・ボッチョーニらに会う。みんなニーチェの崇拝者だった。

1906年、冬、モディリアーニはパリに出る。
パリではモンマルトルのアトリエを転々としていた。ラヴィニャン街の共同アトリエ「洗濯船」の住人であるブラック、ピカソ、マックス・ジャコブと知り合う。

モディリアーニがパリに出た年にセザンヌが亡くなっている。その前年、フォーヴ(野獣派)が世に出ている。翌年1907年にはピカソが『アヴィニョンの娘たち』を完成させてキュビズムが生まれた。サロン・ドトンヌではセザンヌの大回顧展が開かれた。
モディリアーニはこの年、最初のパトロンである医師ポール・アレクサンドルと知り合った。

モディリアーニはセザンヌから深い影響を受けた。セザンヌの『赤いチョッキの少年』を持ち歩き、模写していたという。一方、ピカソに対しては、キュビズム以前は影響を受けたが、キュビズムに関しては、拒否反応を示している。キュビズムは「手段」だけで「生」を問題にしない、と言っている。「抽象は人を疲れさせ、駄目にする。袋小路だ」と。

1908年、アンデパンダン展に『ユダヤの女』など5点を出品。1910年『リヴォルノの物乞い』などを発表。一部の批評家から好意的な評価を得た。

1909年モンパルナスのシテ・ファンギエールに移った。困窮は相変わらずであった。ここの「シテ」という名は芸術家たちの居住区の意味を持ち、スーチンや日本の藤田嗣治も住んでいた。

モディリアーニのダンディーぶりはここでも有名だった。ピカソの愛人フェルナンド・オリヴィエもモディリアーニの美しさを称えていた。モディリアーニ自身もナルシスト的な一面を覗かせてはいたが、実際に自画像というもの1点だけ。たいがいダンディーで通っている画家たちは自画像もダインディーなものを残している。フランドルのヴァン・ダイク然り、ホイッスラーやサージェント、ボルティーニなどそうだが、不思議にもモディリアーニは違う。

1909年、パリの『フィガロ』誌に詩人マリネッティが『未来派』宣言を行った。未来派の前衛運動は舞台はパリだが、イタリアが起源である。未来派の中心人物であるセヴェリーニはモディリアーニを誘ったが、モディリアーニは未来派に入ることは断った。未来派は伝統破壊主義だったからだ。

モディリアーニは伝統主義ではなかったが、伝統破壊主義でもなかったのだ。
未来派のカルロ・カッラや形而上絵画のジョルジョ・デ・キリコも最後にはイタリアの古典伝統に戻っていったが、モディリアーニもイタリアの伝統に近代的な感性を持って対処した一人だった。伝統に対する敬意を失ってはいなかったのだ。

1910年から14年にかけて、モディリアーニは彫刻に傾倒していった。ロダンのように粘土をを練るのではなく、石を彫るのである。 カリアティード(柱状の女性の立像)を制作するためにデッサンを描いたが、そこには先住民族芸術の影響がある。しかし14年以降は再び絵画に戻る。

1914年から2年間、イギリスから来たビアトリス・ヘイスティングスと同棲する。彼女の名前「ビアトリス」が、モディリアーニが敬愛するイギリスの詩人ダンテの永遠の恋人ベアトリーチェと同じだったので、運命を感じたということだ。

しかしビアトリスはとても従順で献身的な家庭的女性とは言えない「新しい女」であった。パリではジャーナリストとして活躍し、人前で平気でタバコを吸う。当時の女性は帽子をかぶることがたしなみであったが、ビアトリスは帽子もかぶらず、窮屈なコルセットも付けず、サンダルで軽快に動きまわる女性だった。モディリアーニより5歳くらい年上だったらしいが、詳しいことは分かっていない。1943年にガス自殺したということは分かっている。
モディリアーニはビアトリスに捨てられた。


ジャンヌ・エビュテルヌに出会ったのは、1917年7月。モディリアーニは33歳。ジャンヌは19歳であった。ビアトリスとは対照的に、物静かで控えめな女性だった。非常に色が白く、ヤシの実とあだ名されたほど。しかし、ジャンヌは厳格なカトリックの家に生まれている。モディリアーニはユダヤ人である。とても許されるような環境ではない。

1918年には子供が生まれているが、モディリアーニは相変わらず破滅的、ボエミアン的な生活だった。ジャンヌの一途さにはモディリアーニは応えているとは言い難かった。

モディリアーニは1920年、1月24日、36歳で、結核が原因で死去する。
その二日後、ジャンヌはアパートから身を投げた。2人目の子供がお腹にいた。夫を失ったジャンヌは実家に帰ったが、迎えた両親の態度が冷たかったから。

モディリアーニの子供ジャンヌは、モディリアーニの姉(生涯独身だった)が育てた。
(無断転載禁止)

ユダヤの女
1908  55 x 46 cm   個人蔵

リヴォルノの物乞い 
1909   64 x 54 cm   個人蔵

チェロ弾き
1909  130 x 81 cm  個人蔵

ポール・アレクサンドル
1911-12

ディエゴ・リベラ   (メキシコの画家)
1914  個人蔵

ディエゴ・リベラ(習作)
1914  サンパウロ美術館

フランク・パーティ・ハヴィランド(習作)
1914  ロサンジェルス・カウンティ美術館
モデルの親族が日本趣味の陶芸工場を経営

パブロ・ピカソ
1915  35 x 27 cm   個人蔵

モイズ・キスリング   (ポーランド出身の画家)
1915  37 x29 cm

ビアトリス・ヘイスティングスの肖像
1915  81 x 54 cm   個人蔵
ビアトリスは南アフリカ生まれの詩人、ジャーナリスト。「新しい女」「解放された女」であるビアトリスは、モディリアーニに出会った時の印象は、「髭を剃った時のモディリアーニは大変な二枚目だった」という。


ホアン・グリス(ジュアン・グリス)
1915 Oil on canvas  メトロポリタン美術館  ニューヨーク

アンリ・ローランス
1915

ポール・ギヨーム
1915  105 x 75 cm   オランジェリー美術館  パリ
20世紀初頭、最も重要な画商の一人。

1914年、アフリカの黒人彫刻についての書物をアポリネールと共に出版した。

モディリアーニをはじめ、デ・キリコ、ユトリロ、アンリ・ルソー、マティス、ピカソ、ドランなど画商として擁護した。

1923年、アメリカから来た大コレクターA.C.バーンズをスーティンに紹介。スーティンはこれで困窮から抜け出した。

この絵の中でモディリアーニはラテン語で「新しい水先案内」「海の導きの星」と書き込んでいる。

右腕を頭の下に曲げて横たわる裸婦
1915  51.8 x 65.2 cm

肥った子供
1915

美しい家政婦
1915   110 x 50 cm    バーンズ財団  メリオン

ジャック・リプシッツ夫妻像
1916  80.2 x 53.5 cm   シカゴ美術館
リトアニア出身の彫刻家。

レオポルド・プボロフスキ   
1916  65 x 43 cm   個人蔵
モディリアーニを援助したポーランド出身の画商

ポール・ギョームの肖像
1916    81 x 54 cm   ミラノ市立近代美術館

マックス・ジャコブ
1916   73 x 60 cm   ノルトライン・ヴェストファーレン美術館 、デュッセルドルフ
モンマルトルの「洗濯船」の住人の一人で、モディリアーニがモンパルナスに移っても友情は変わらず続いた。

モディリアーニに彫刻家ジャック・リプシッツを紹介したり、画商ポール・ギョームを紹介したりした。

詩人であったが、手相占い師、占星術師、神秘主義者であり、画家でもあった。

モディリアーニと仲が良かったのは、2人ともユダヤ人だったからかもしれない。しかしマックスは1909年、キリストの幻を見たとして、キリスト教に改宗した。

憶測ではあるが、同性愛者だったマックスがハンサムなモディリアーニにひと角ならぬ思いがあったともいう。


左右不揃いの目は、「一方の目は外の世界を見て、もう一方の目は内側の世界を見る」という。

腕を曲げて横たわる裸婦
1916  65.5 x 87 cm   ビューレ・ジレクション   スイス

ヴィクトリア
1916  80.6 x 59.7 cm   ロンドン、テイト・ギャラリー

ジャック・リプシッツとその妻
1916-17   81 x 54 cm   シカゴ美術研究所

レオポルド・プボロフスキ
1916  ヒューストン美術館

黒いネクタイをした女
1917  65.4 x 50.5 cm   フジカワ画廊 東京

うつぶせに横たわる裸婦
1917  64.5 x 99.5 cm   バーンズ・コレクション
1916−19年の間に、24点ほどの裸婦を描いている。

モディリアーニの裸婦は、横たわっているいるのはベッドなのか長椅子なのか、はっきり分からない。

それまでの歴史的な裸婦の絵のように、「オダリスク」のようなエキゾティックな小道具もなく、室内装飾もない。
モディリアーニが慣習を拒否しているという点で傑出した作品。

1917年、モディリアーニのパトロン、レオポルド・ズボロウスキーが主催したベルト・ヴェイユ画廊でのモディリアーニ展で、5点のヌードが警察に押収された。

いかに絵画の歴史を無視した裸婦像だったかを物語っている。

ジャンヌ・エビュテルヌ
1917-18

ジャンヌ・エビュテルヌ
1918  47 x 33 cm   個人蔵

大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ
1918   55 x 38 cm 

ジャンヌ・エビュテルヌの肖像
1918  エール大学アート・ギャラリー  アメリカ

ジャンヌ・エビュテルヌ
1918   メトロポリタン美術館

肘掛椅子に座るジャンヌ・エビュテルヌの肖像
1918

横向きで座っているジャンヌ・エビュテルヌ
1918  バーンズ財団 アメリカ
モディリアーニの絵では珍しく横向きのポーズ。
エビュテルヌの円錐形の髪型が誇張されて表現されている。

下から上へと次第に細くなっていくという傾向は、モディリアーニの晩年顕著になっていく。

モディリアーニはルーヴル美術館の古代エジプト芸術の熱心な賛美者だった。

エキゾティックな王冠の形の、エビュテルヌの髪型は、神官のような威厳が与えられている。

髪から首、肩へのS字カーヴなど、第一次大戦後に流行することになる洗練された流線型のアルカイズムの典型でもある。
   
   

門番の子
1918   100 x 65 cm    個人蔵
第一次大戦末期、1918年、モディリアーニは妻ジャンヌととも南フランスのコート・ダジュールに転地療養した。レオポルド・ズブロフスキーのアイディアだった。

1918年以前、モディリアーニはあまり子供を描いていないが、この年から随分と描くようになっている。1918年11月に生まれた娘ジャンヌの影響で、モディリアーニは子供に対する父親としての愛に目覚めたのかもしれない。

残念なのは、モディリアーニの実子ジャンヌの絵が無いことである。


モディリアーニ 「若い小間使いの女」 1918 |  152 x 61 cm  |オルブライト=ノックス・アート・ギャラリー、バッファロー
モディリアーニ 「若い小間使いの女」 1918 |  152 x 61 cm  |オルブライト=ノックス・アート・ギャラリー、バッファロー

モディリアーニ 「糸杉と家」 1919 |  61 x 46 cm  |個人蔵、メリオン、ペンシルヴェニア、U.S.A
モディリアーニ 「糸杉と家」 1919 |  61 x 46 cm  |個人蔵、メリオン、ペンシルヴェニア、U.S.A

左腕を上げたジャンヌ・エビュテルヌ
1919  100 x 65.3 cm   バーンズ・コレクション 

水玉のブラウスを着た少女
1919  105.2 x 72.7 cm   バーンズ・コレクション

自画像
1919   100 x 64.5 cm  サン・パウロ大学付属美術館
第一次大戦終結の翌年、死の一年ほど前の自画像。

生涯で自画像はこの一点だけである。

扇を持つルーニア・チェホウスカ
1919    100 x 65 cm   パリ市立近代美術館
モデルはロシア出身のルーニア・チェホウスカ。画商のレオポルド・ズブロフスキーの親しい友人だった。

ルーニアの夫は詩人で革命家。モディリアーニと出会った頃は軍役に服していた。

モディリアーニはルーニアに特別の好意を寄せていたようだった。しかしこの頃モディリアーニにはジャンヌがいた。

一時期、ジャンヌはルーニアに嫉妬してようだ。ルーニアは節度ある態度で、モディリアーニに接していたので、事なきを得たようだ。

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