ミレイ、ジョン・エヴァレット |
Millais, John Everett (1829-1896) |
イギリス ラファエル前派 |
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両親の家のキリスト (大工仕事場のキリスト)
Christ in the House of His Parents 、Painted in 1849-50 |
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Oil on canvas; 86.4 x 139.7 cm
Tate Gallery, London, England
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伝統的な理想化を一切排除したため、酷評された絵である。
当時の人々にとって、この絵は冒涜的であった。キリストは顎の脹れた赤毛の少年、聖マリアはキャバレーでも浮き上がるほどのブス、など卑近な写実への反感が強かった。
作業場の左に立っているのが、キリストの父親、聖ヨセフである。本物の大工をモデルとしているため、そのリアリティは圧倒される。贅肉がなく、筋肉質、節くれだった手。どこかで会ったことのあるような、普通の大工さんである。
仕事場も、実在の大工の仕事場をもとに描かれている。いっさいの理想化がないのである。
しかし、よく見ると、多くの点において、典型があるのである。
キリストは手に怪我をしていて、その血が足に落ちている。これは、キリストの磔刑を予型している。
右の子どもは洗礼者ヨハネである。腰の周りを覆っている毛皮から分かる。傷を洗うために水を運んでいるが、この水はキリストの洗礼を予表している。
キリストの前にキリストの前で跪くマリアの姿は、ピエタを想起させる。
壁に掛かっている三角定規は、聖三位一体を表し、はしごに鳩が止まっているが、キリストの洗礼のときに現れる聖霊を暗示している。
画面左側に目を移せば、戸口に赤いサボテンの花が咲いている。茨の冠を想起させ、キリストの受難と流された血を表す。
左端には編みかけの柳の籠がある。突き出した枝はキリストの苦難と殉教を表している。編みかけのまま、まだ完成されていないのは、キリストの使命がまだ、達成されていないことを暗示している。
ヨセフが今、作っているのは、一枚の戸である。その戸に打ち付けてある釘で、キリストは傷を負った。
ヨハネ福音書10−9に「私は門である。私を通って入るものは救われる」とあるように、戸はキリストの象徴である。
そしてその戸は、左側、羊たちが見えるが、その戸口のための戸である。再びヨハネ福音書10−11に、「私はよき羊飼いである。よき羊飼いは、羊のために命を捨てる」とある。
よき羊飼いであるキリストは、羊たちである人々が通ってくる戸であり、その人々を救うために犠牲となる。
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参考: 『ロセッティ』 谷田博幸 著 平凡社 |
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