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エドゥアール・マネ
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(1832-1883)
フランス   写実主義 、印象派
パリの上流市民階級に生まれた。父親は司法官。

海軍学校の試験に失敗したあと、クチュールのアトリエに通い絵画の勉強を始めた。しかし、アカデミックな絵画を描くことを拒否して、1856年にはクチュールと決別する。

1855年から82年まで官展に作品を出している。落選や批判を受けることを繰り返しながら、自らの斬新な作品を認めさせようと努力した。

マネの描く現実的な場面設定、造形的な探究は絵画革新を進めていった。

マネ 「アブサンを飲む男」 1858-59  ニイ・カールスベルク彫刻館、コペンハーゲン、デンマーク
マネ 「アブサンを飲む男」 1858-59  ニイ・カールスベルク彫刻館、コペンハーゲン、デンマーク

マネ 「水差しを持つマネ夫人」 1858-60  オードロップゴー美術館、コペンハーゲン、デンマーク
マネ 「水差しを持つマネ夫人」 1858-60  オードロップゴー美術館、コペンハーゲン、デンマーク

マネ 「スペインの歌手(ギタレロ)」 1860  146x114cm  メトロポリタン美術館、ニューヨーク
マネ 「スペインの歌手(ギタレロ)」 1860  146x114cm  メトロポリタン美術館、ニューヨーク   サロン初入選作品

マネ 「驚くニンフ」 1861  146x114cm  ブエノスアイレス国立美術館、アルゼンチン
マネ 「驚くニンフ」 1861  146x114cm  ブエノスアイレス国立美術館、アルゼンチン

マネ 「街の女歌手」 1862  175x118cm ボストン美術館
マネ 「街の女歌手」 1862  175x118cm ボストン美術館

マネ 「エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン」 1862  166x129cm  メトロポリタン美術館、ニューヨーク
マネ 「エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン」 1862  166x129cm  メトロポリタン美術館、ニューヨーク

マネ 「テュイルリー公園の音楽会」 1862  Oil on canvas 、76 x 118 cm  ロンドン、ナショナルギャラリー
マネ 「テュイルリー公園の音楽会」 1862  Oil on canvas 、76 x 118 cm  ロンドン、ナショナルギャラリー
当時は、けばけばしい色使いだと評された。

マネ 「老音楽師(辻音楽師)」1862  186x247cm   ワシントン・ナショナル・ギャラリー
マネ 「老音楽師(辻音楽師)」1862  186x247cm   ワシントン・ナショナル・ギャラリー

草上の昼食
1863  Oil on canvas 214 x 269 cm   オルセー美術館
エドゥアール・マネ「草上の昼食」 1863年、サロン出品作品。
しかし、この年のサロンの審査は厳しかった。アカデミーの会員が審査員であるが、彼らは巨大化してしまった美術界に大ナタをふり、入選者の数を前年の4分の3に減らした。マネのこの作品も落選した。

当時の画家たちにとって、画家として生活できるには、このサロンに入選することが唯一の方法であった。落選者が多すぎたこの年のサロンへの不満の声が上がっていた。

皇帝ナポレオン3世は、自らの権威を示すために、審査のやり直しを命じた。しかし審査員たちは、そんなことをするなら総辞職すると、脅した。この時点で、すでに皇帝の権威に恐れを抱くものがいなかった。そんな時代であった。

皇帝ナポレオン3世は、生意気な審査員たちへ、これ見よがしに落選展開催を命じた。参観者たちが直接作品を見て、サロンの審査員の審査が妥当かどうか判断してもらおうとしたのだ。

ナポレオン3世は軽率だった。皇帝の文化的権力の代理人としてのアカデミー会員を軽視したことになるからである。それは結局は、皇帝自身の権威をも失っていくことになることに気がつかなかった。1870年には普仏戦争で退位することになるが、もうすでにこの時、威信は無くなってしまっていた。

皇帝の威信にかけて行った落選展の中に、大スキャンダルを巻き起こしたマネの、この作品が入っていた。ナポレオン3世の悲劇でもある。

しかし、マネは、どうしてこのような作品を描いたのだろう。

男性の着けているモーニングコートは、現在のスーツの原形で、1875年にようやくジャケットという呼び名が定着する。1863年の当時、まだジャケットという呼び名がない。
ということは、最新の若者ファッションであったと考えられる。そして、つばの無いふさ付きの帽子は、まるっきり奇異なものであった。かなりなしゃれ者である若者がトルコ風を気取って被っていたと考えられる。いつの時代も若者のファッションは大人たちからの避難の的になる。

女性は当時、スカートの下にクリノリンと呼ばれる鉄輪を入れ、スカートをどんどん膨らませていた。1860年くらいを頂点に、スカートの膨らみは縮んでいき、1863年くらいにはかなり簡素化された。といってもクリノリンは顕在だった。
しかしこの絵には、脱いだと思われるクリノリンがない。

リキュールの大きな瓶があるが、飲み干したように置かれている。4人で強いリキュールを、しかもコップが無いので、回し飲みしたと思われるが、かなり酔っているはず。

この絵は見ている人たちに、どうにも不謹慎なことを勝手に想像させてしまうのである。そして絵を見て不謹慎なことを考え巡らせている自分に気づき、そんなことを考えている自分が、周囲に悟られてはいないかと不安になる。そんな自分をごまかすために怒りが出てくる。  マネの技である。

このマネの技はどこから来たのだろう。

写真はこの時代、ディデリの発明によって、小さくする技術が開発された。名刺大にまで小さくすることができて、高価だった値段も下がった。写真が大衆のものになっていった。写真家ナダールが写真館を開いたのは1853年であった。ナダールは後にモネの印象派展にスタジオを貸す。1850年には、猥褻写真の販売禁止法が存在していた。

現実をそのまま記録してしまう写真。当時は白黒だったから、絵はまだ対抗できた。しかし、現実ではなく理想美を描く絵画に対しては、写真の存在が、絵に描かれた美というものを絵空事にしてしまった。

まるでスナップ写真のような『草上の昼食』は、写真と同じだ、と言ってしまえば、それまでの絵画は破滅してしまう。そういう意味でも非常に危ない絵なのである。しかし、印象派の写真にできない絵画を生み出すには、必要な第一歩となる絵なのである。

マネ 「オランピア」 1863 | 130.5 x 190 cm | オルセー美術館
マネ 「オランピア」 1863 | 130.5 x 190 cm | オルセー美術館 1865年、サロンの入選作品。

1864年、パリの人口は170万人。パリの娼婦の数は12万5千人。なんとも。おおまかに言えば赤ん坊も含めた女性の6〜7人に一人は娼婦であった。これはあくまでも大雑把な数字でしかない。未登録の娼婦やパートタイムの娼婦の数も入れたら、ものすごいことになる。

第二帝政時代、フランス経済はピークを迎えていた。社会制度が整わないうちに、経済が発展してしまったので、貧富の差が激しくなってしまった。

当時、女性には、妻になるか娼婦になるかしか道がなかったのである。もちろんお針子とか店員とかの仕事もあったが、その薄給が彼女たちを娼婦へと誘ったか、そういった仕事にすら付けない女性もいただろう。

しかし、これだけの娼婦を養える社会、消費者があったということも事実である。貴族階級や新興のブルジョワジーたちは、形だけは「家庭」というものを大事にしていたが、それは上っ面だけであったと、数字が証明している。

娼婦だって、どうせ不道徳な商売に身を入れるなら、上へ行こうとするものも出てくる。上流階級相手の高級娼婦なら、社交界や政界の華になることができた。高級娼婦を望む女性たちが集まっていたのは、オランピア劇場だった。

高級娼婦が主役の「椿姫」のオペラ版、ヴェルディの「ラ・トラヴィアータ」は1856年には、ヴェルディの傑作のひとつになっていた。

マネの『オランピア』女性はヴィクトリーヌという娼婦だったという。マネの愛人でもあった。このオランピアは、なかなか気位の高い娼婦そうである。まるで「裸が見たい」という客に向かって、事務的にガウンを脱いでベッドに身を横たえたようである。しかもサンダルを履いたまま。花束を抱えた黒人女性は召使。当時流行だった。この娼婦いつもの退屈な贈り物に目も留めない。

古典主義に則った作品なら、履き古したサンダルなど描き込まない。高価な犬なら描いても、黒ネコが毛を逆立てている姿は描かない。黒人下女など描き込んではならない。とてもヴィーナスには見えないから。

マネの『オランピア』を見て、彼女は娼婦だと、心当たりがある紳士たちが沢山いたにちがいない。この絵を見て、「芸術を冒涜している」という者がいたら、それは、他に生きる手段のない貧しい女性たちを冒涜しているのだ。

マネの絵は、ある意味、それを観る者たちの内面の「鏡」でもあった。


キアセージ号とアラバマ号の海戦
1864   Oil on canvas  138.7 x 129.9 cm   フィラデルフィア美術館
エドゥアール・マネ「キアセージ号とアラバマ号の海戦」 アメリカ南北戦争中の、シェルブール沖での海戦。

マネ 「ばた屋」 1865  194.9 x 130.8 cm ノートン・サイモン美術館、カリフォルニア
マネ 「ばた屋」 1865  194.9 x 130.8 cm ノートン・サイモン美術館、カリフォルニア

笛吹く少年
1866  Oil on canvas  161 x 97 cm  オルセー美術館
エドゥアール・マネ「笛吹く少年」 1865年、スペインへ旅行したマネは、プラド美術館でベラスケスの作品を見た。そこから背景と色彩を単純化すること、前景と後景の区別をなくして、灰色のバックに人物を浮き上がらせる方法を学んだ。

ベラスケスの『道化師パプリロス』を見て、マネは「背景は消え去り、この黒装束の生き生きした男を取り巻いているのは空気だ」と言った。

女とオウム
エドゥアール・マネ 「女とオウム」 1866

Oil on canvas 、185.1 x 128.6 cm
Metropolitan Museum of Art, New York

マクシミリアン皇帝の処刑
1867  Oil on canvas  196 x 259.8 cm  ボストン美術館(上)
1867  Oil on canvas 、252 x 305 cm   マンハイム市立美術館(下)
エドゥアール・マネ 「マクシミリアン皇帝の処刑」 ナポレオン3世による第二帝政時代は決して悪くはなかった。
1860年代は、産業の発展と経済的な繁栄があった。

政治的にも安定し、経済も好況、あとは外交的栄光が加われば、ナポレオン3世の体制は安泰である。

1854年、イギリス、トルコと組んで、ロシアと戦った。クリミア戦争である。セヴァストポリ港の陥落にフランス国民は沸いた。
アフリカ、アジアを侵略して、植民帝国を築いていったのもナポレオン3世であった。1858年に鎖国していた日本から強引に日仏修好通商条約を結んだのも、ナポレオン3世であった。

1861年、メキシコの自由主義的革命政権が、外国債の利子支払停止を宣言した。これを口実にフランスは、イギリス、スペインを誘って兵を送った。

メキシコをファレス政権の抵抗は強く、イギリスとスペインは早々に軍を引き揚げた。しかしナポレオン3世は、なかなか引き下がらなかった。3万の軍隊増員をして、1863年、首都メキシコ市を陥落させた。

オーストリアの皇帝の弟マクシミリアンを傀儡皇帝に据えた。しかし、メキシコ民衆のゲリラ戦で立ち往生し、合衆国からも撤兵申し入れがあり、ナポレオン3世はしぶしぶ引き揚げることになった。しかし、マクシミリアン皇帝は引き上げを拒否。結局は捕らえられて銃殺されてしまう。


叔父のナポレオン一世は、イベリア半島遠征でつまずいた。ゴヤはマネが尊敬していた画家である。そのゴヤは「5月3日」を残している。
エドゥアール・マネ「マクシミリアン皇帝の処刑」

マネ 「ゾラの肖像」 1868 |146 x 114 cm | オルセー美術館
マネ 「ゾラの肖像」 1868 |146 x 114 cm | オルセー美術館
文豪エミール・ゾラの肖像。『ナナ』や『居酒屋』などの自然主義文学の代表者。もともと美術評論なども書いていた。1860年代、マネが世間から激しく非難されていたとき、マネを擁護したのはゾラだった。ゾラの前に並んでいる本の中にゾラが書いたマネの評論集の青い本がある。

背景には日本の花鳥画の屏風があり、壁には相撲力士の浮世絵、マネのオランピアが貼ってある。

マネ 「ピアノを弾くマネ夫人」 1868 | 38x46.5cm  |オルセー美術館
マネ 「ピアノを弾くマネ夫人」 1868 | 38x46.5cm  |オルセー美術館

マネ 「スタジオでの昼食」 Luncheon in the Studio

高画質
1868
Oil on canvas
Neue Pinakothek, Munich, Germany
モネの継息子。おそらくモネの息子。

バルコニー 
マネ 「バルコニー」 1868−69 | 170x124cm  | オルセー美術館、パリ
マネ 「バルコニー」 1868−69 | 170x124cm  | オルセー美術館、パリ

マネ 「月明かりのブーローニュの港」 1869 |82x100cm | オルセー美術館、パリ
マネ 「月明かりのブーローニュの港」 1869 |82x100cm | オルセー美術館、パリ

マネ 「黒い帽子のベルト・モリゾ」 1872 |55x38cm | 個人蔵、パリ
マネ 「黒い帽子のベルト・モリゾ」 1872 |55x38cm | 個人蔵、パリ

マネ 「鉄道」 1872-73  93.3 x 111.5 cm  ワシントン・ナショナル・ギャラリー
マネ 「鉄道」 1872-73  93.3 x 111.5 cm  ワシントン・ナショナル・ギャラリー
印象派の魅力とは何か

秋になると、あちこちの美術館で特別展がある。たいていは印象派の画家展で、ゴッホとかセザンヌなどである。いつ行っても混んでいる。長い列ができていて、その最後部には看板が置いてあり、「1時間待ち」「1時間半待ち」と親切に教えてくれる。忍耐である。

やっと展示の絵にたどり着いても、人でごった返している。残念なことに、照明がよくなかったりもして、絵を見に来た人々の顔が絵のガラスによく映る。

しかし、なぜだだろう。こんなにまでして、なぜ人は印象派絵画展に集まるのか。ちょっと考えてみた。

マネの "The railroad"

マネを紹介しながら、印象派の魅力を考えてみよう。 "The railroad" という1873年に描かれた作品を見てみよう。

まずは上の絵をクリックして、別のウィンドウを開けていただきたい。

絵が見えましたか?それではご説明します。

女性と少女の絵である。女性は本を手に、フェンスの手前に座っている。本には興味がなさそうである。子犬を膝で寝かせている。

少女は立ち上がって、後ろを見ている。気をつけてフェンスの向こうを見ると、汽車の部分が見える。煙を吐いているので、今にもどこかに出発しそうである。少女は汽車を見ているのである。

退屈な日常

女性は、表情からすると、たいした面白いこともない日常を、ただ漫然と送っているのだろう。普通の生活である。普通の大人が送っているような。

対照的に少女のほうは、汽車がどこに行くのか、とても興味がある様子である。19世紀は、汽車というと、冒険の象徴のようなものであった。子供はささいなことに非常な興味を示す。

我々が大人になって行くなかで、何かを失ってきた。この少女は、まだそれを持っているのである。もしかしたら少女は、この女性がまだ少女だったころの記憶かもしれない。

とらえられた瞬間

印象派の画家たちは、我々の生活の中の、一瞬を捕らえて、描き出すのがとても上手である。マネのこの絵も、ある女性のふとした、瞬間なのかもしれない。次の瞬間で、彼女は現実に戻り,少女は消えてしまうのかもしれない。

タールを塗られるボート
1873 7月-8月  50 x 61.2 cm   バーンズ・コレクション
1873年夏、北フランス、ブーローニュの近く、ベルク=シュル=メールで制作。

マネは1860年代は、暗く滑らかに絵を仕上げていたが、1870年代はより印象派に近づいていった。この絵はその過渡期にある。

マティスは、マネの「鈍く光りを含んだ黒」が好きだった。

自然の三つの要素、火と木と水が詩的に表現されているので、風俗画とも少し違った面持ちのある作品。

オペラ座の仮面舞踏会
エドゥアール・マネ「オペラ座の仮面舞踏会」
高画質
1873-1874
Oil on canvas
The National Gallery of Art, Washington, DC, USA

マネ 「ペインティングボートのマネ」 1874 |82.5x105cm |ノイエピナコテーク、ミュンヘン、ドイツ
マネ 「ペインティングボートのマネ」 1874 |82.5x105cm |ノイエピナコテーク、ミュンヘン、ドイツ 

The Banks of the Seine at Argenteuil
1874
Oil on canvas
Private collection

Boating
1874
Oil on canvas
The Metropolitan Museum of Art, New York, USA.

マネ 「アルジャントゥイユ」 1874  | 149x115 cm |トウールネ美術館|ベルギー
マネ 「アルジャントゥイユ」 1874  | 149x115 cm |トウールネ美術館|ベルギー

マネ 「ステファヌ・マラルメ」  1876  |  27.5x36cm  |  オルセー美術館
マネ「ステファヌ・マラルメ」 1876  |  27.5x36cm  |  オルセー美術館

At the Cafe

高画質
1878
Oil on canvas
Oscar Reinhart Collection, Winterthur, Switzerland

The Road-Menders, Rue de Berne

高画質
1878
Oil on canvas
Private collection.

The Conservatory

高画質
1878-1879
Oil on canvas
Gemaldegalerie, Berlin, Germany

マネ「カフェのコンサート」 1879 | 個人蔵

マネ 「アスパラガス」 1880 | 16.5x21.5 cm | オルセー美術館
マネ 「アスパラガス」 1880 | 16.5x21.5 cm | オルセー美術館<BR>

マネ 「フォリー=ベルジェール劇場のバー」 1881-82 | 96 x 130 cm |コートールド研究所、ロンドン
マネ 「フォリー=ベルジェール劇場のバー」 1881-82 | 96 x 130 cm |コートールド研究所、ロンドン 死の前年に描かれた、最晩年の名作。フォリー=ベルジェールは第二帝政期の1867年に作られたミュージック・ホール。オペレッタ、寸劇、レビュー、シャンソン、曲芸など様々な出し物で人気を集めた。

絵をクリックしてマネの絵画、フォリー=ベルジェール劇場のバー を別のウインドウで見て欲しい。

この絵もまた、ある女性の一瞬の孤独を描いている。美しい女性の悲しそうな表情が見える。彼女はバーで働いている。その仕事の最中、一瞬、孤独を感じる。次の瞬間にはまた、忙しく立ち働くのである。


記憶はフラッシュする

第二次大戦中、カミカゼ特攻隊の飛行機に乗った人の話を聞いたことがある。飛行中、飛行機が突然壊れて、もう死ぬと思った瞬間、子供の頃からの記憶が、写真をフラッシュしていくように、それぞれの瞬間が、次々と、脳裏をかすめて行ったそうだ。

印象派の画家は、群衆の中で我々がふと感じる孤独や、喜びの瞬間を捕らえて、描き出したのである。

最も嬉しい瞬間はすぐに過ぎて、次の瞬間がやってくる。最も悲しい瞬間も、ずっと続くわけではない。次の瞬間から、徐々に悲しみは消えて行く。

印象派はこの、我々誰もが持っている『瞬間』に現れる、真実を描き出したのである。ここに印象派の魅力がある。


永遠と瞬間

公式には印象派は1874年に誕生したことになっている。印象派の画家たちは、普通の人々の日常を描き始めた。

以前に説明した、ボティチェリの絵画のように、ドラマティックでもなく、ロマンティックでもない。ボティチェリは15世紀の画家である。その絵の中には、ギリシャ神話のクロリスがフローラに変化していくような、時間の流れが描かれでいる。現実など何も描かれていない。

産業革命と技術革新が激しかった19世紀は、人々が豊かになり、現実をみる余裕ができた。神話や聖書の物語は知識の道具となり、もはや、信仰では無くなって行ったのである。


ガラス花瓶の中の白いライラック 
エドゥアール・マネ 「ガラス花瓶の中の白いライラック」 1882
Oil on canvas
21 1/16 x 16 3/8 in. (54 x 42 cm)
ベルリン国立美術館 Nationalgalerie, Berlin

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