ショッピング 西洋絵画史 女流画家 ギリシャ神話 聖書の物語 文学 画像使用と著作権 リンク集
画家名・アーティスト名一覧  Artist INDEX
     |      |      |  ちつ   | なにぬねの
     |      | やゆよ |      |  
西洋美術史年表       絵画史別 画家インディックスはこちら
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
ポスターはこちら
(1864−1901)
フランス   世紀末芸術、印象派

南仏アルビのトゥルーズ伯爵家に生まれる。

1873年、フォンタヌ中学に入学したが、虚弱体質で、アメリ・レ・バンで静養していた。結局翌年、退学。家庭教師につくことになった。

1878年、アルビの客間で転倒し、左足を骨折してしまった。翌年、療養地のバレージュで、散歩の途中みぞに落ちて、今度は右足を骨折。以後、上半身は成長したが、両足の発育は止まってしまった。

1881年、大学入学資格試験に二度目で合格。しかし、勉学の道はやめて、絵画に専念することを決意する。
最初はボナのアトリエで、そこが閉鎖された後は、モンマルトルのフェルナン・コルモンのアトリエで絵を勉強した。身体は弱かったが、陽気で知性的なロートレックは友人たちに恵まれた。

1885年、ロートレックが21歳の頃、モンマルトルでアリスティード・ブリュアンに出会う。ブリュアンは歌手であり、作詞家でもあった。彼の新聞「ミルリトン」にロートレックのデッサンを発表した。彼のキャバレーにロートレックの油絵が並んだ。ロートレックが場末の歓楽街に出入りしたのもブリュアンの教えであった。
このころ、当時18歳のマリアと親しくなる。やがてシュザンヌ・ヴァラドンの名前で画家として有名になる。ユトリロの母親である。この時すでに2歳になるユトリロを連れていた。

1886年、パリに出てきたばかりのゴッホに出会う。ゴッホにアルル行きを勧めたのはロートレックであった。

1888年、24歳。ブリュッセルの20人展に出品。
翌1889年、アンデパンダン展で初のロートレック展を開く。この頃はモンパルトルに入り浸っている。

1891年、27歳。初のポスター「ムーラン・ルージュ」を制作。 以後数年間は制作と旅に忙しかった。

1896年、32歳のとき、マンジィ・ジョワイヤンの画廊で二度目の個展を開いた。

1897年、33歳、フロショ通りに新しいアトリエを構えた。ポスターの制作を辞めて、石版画に熱中する。しかし、このころからロートレックの飲酒が深くなっていった。

翌年の冬あたりから幻覚症状を起こすようになっていた。

1899年、35歳。
2月にアルコール中毒が原因の発作を起こした。ロートレックの母親は治療のため彼を監禁することを決意。力づくであった。ロートレックが画室から出たところを拉致して、ヌイーイのサン=ジャム精神病院に入れた。

ロートレックは自由を奪われてしまったことに耐えられなかった。正常であることを証明するために、記憶だけで『サーカス』シリーズを制作した。ジョワイヤンら友人らの奔走もあって、退院。

しかし、36歳になって、再び飲酒癖が始まってしまった。完全に健康が蝕まれてしまった。
1901年、渾身の力で制作活動を続けていたが、8月20日、発作の再発。ロートレックは母親の購入したマルロメの城館で、母親のそばで死にたいと望んだ。9月9日に37歳で息を引き取った。

母親はアトリエにあった作品をアルビ美術館に寄付した。のちにロートレック美術館とも言われるようになる。
(無断転載禁止)

朝食をとるロートレック伯爵夫人 (ロートレックの母)
1883, oil on canvas, アルビ、トゥルーズ=ロートレック美術館
モンマルトル界隈に画家として住み始めると、ロートレックはほとんど勘当同然の状態だったよう。
しかし、母親とは親密で、ロートレックを最後まであたたく見守った。

「私たちの未来のミケランジェロ」と書いた手紙もある。


このころの画風は印象派やマネの影響が強い。

The Young Routy
1883, oil on canvas, Neue Pinakothek, Bayerische Staatsgemaeldesammlungen, Munich

エミール・ベルナール
1886, oil on canvas, ロンドン、テイト・ギャラリー
コルモンのアトリエでともに学んだ友人。

"A Montrouge" - Rosa La Rouge
1886-87  Oil on canvas  72.3 x 49 cm  Barnes Foundation, Merion, Pennsylvania

ロートレック伯爵夫人
1886-87, oil on canvas, アルビ、トゥルーズ=ロートレック美術館
ロートレックの母。

4年前に購入したマルロメの城館にて。

ムーラン・ド・ラ・ギャラットにて
1889, oil on canvas, シカゴ美術研究所
ムーラン・ルージュにとって代わられるまで、ムーラン・ド・ラ・ギャレットはパリで人気のダンスホールだった。ルノワールも常連の一人だった。


エレーヌ
1889, oil on cardboard, Musee Toulouse-Lautrec, Albi.

ムーラン・ルージュにて
1889-90, oil on canvas, フィラデルフィア美術館
ムラン・ルージュの支配人オレルがこの絵を購入して、店の入り口に飾った。

画面中段で、踊っている女性がラ・グーリュー、男性は骨なしヴァランタン。2人の下に落ちた影も、動きを表す点で効果的。

踊っている2人の間、後方のコートを着て正面を向いているのは、ジャヌ・アヴリル。
右後方、横顔の髭の男は、ロートレックの父親だといわれている。

新聞を読むデジレ・ディオー
1890, oil on cardboard, アルビ、トゥールズ=ロートレック美術館

ルイ・パスカル
1891, oil on board,  アルビ、トゥールズ=ロートレック美術館
ロートレックのいとこ。フォンタヌ中学では同窓。大親友でもある。

このころのモンマルトルは、イギリス人の常連が多かった。「ジェントルマン」の身だしなみは目の当たりにしていた。その影響が出ている。

ムーラン・ルージュのラ・グーリュ
1891  Lithograph in four colors (poster)、191 x 117 cm  アルビ、トゥールズ=ロートレック美術館、
ロートレックのポスター第一作。

ムーラン・ルージュは1889年に開場。たちまち人気になり、モンマルトルの象徴的な存在となる。
客もすごくて、ロシアの皇太子、ウェールズ公(後のエドワード7世)など高貴な士たちもいた。

ポスターのバックのシルエットに、華やかな賑わいが暗示されている。

中段でガドリールを踊っているのはラ・グーリュー。

前方の特徴的な横顔が「骨なしヴァランタン」。ダンスの名手とうたわれた人物。
ポスター第一作。中央でカリドールを踊る人気ダンサー、ラ・グーリュ。
前の男は「骨なしヴァランタン」

ジュスティーヌ・デュール
1891 74 x 58 cm  オルセー美術館
モンマルトルの一角、ベール・フォレの庭園で描かれた。珍しく戸外での作品。しかし、ロートレックにとって戸外の作品でも、外光を追及するとかはなく、あくまでも関心はモデルに集中していた。

手袋の女 (オノリーヌ・プラツェル嬢)
1891, oil on cardboard, パリ、オルセー美術館

アンバサドールのアリスティード・ブリュアン
1892 Lithograph in six colors (poster) 141 x 98 cm  アルビ、トゥールズ=ロートレック美術館
モンマルトルの人気歌手で、作詞作曲もしていた。
1885年、自らキャバレ・ミルリトンを開く。20歳のロートレックを娼婦の世界に誘い込んだのもブリュアンだといわれている。

帽子、マント、マフラーを平坦な色で分割、単純な画面構成は日本の浮世絵の影響が強く感じられる作品。

ムーラン・ルージュでワルツを踊る2人の女性
1892  Oil on cardboard  93 x 80 cm  Narodni Galerie, Prague

ムーラン・ルージュにて、カドリール
1892, oil on canvas, National Gallery of Art, Washington D.C
カドリールは当時流行したダンスの一種。

ここではダンスが始まる前の光景。仁王立ちしている女性を見ると、ロートレックはあくの強い女性にも感応しているのだな、というのがわかる。

ムーラン・ルージュにはいるラ・グーリュー
1892 Oil on cardboard  79.4 x 59 cm  ニューヨーク近代美術館
ラ・グーリューは、ムーラン・ド・ラ・ギャレットを振り出しに、ジャルダン・ド・パリ、ムーラン・ルージュなどの出演していた人気ダンサー。節制を欠いた生活だったため、数年後にはスターの座を降り、寂しい晩年だったと伝えられる。


その容姿にはルートレックの容赦ないデフォルメが加えられている。

Portrait of Madame de Gortzikoff
1893, oil on cardboard, private collection, London

ル・ディヴァン・ジャポネ
1893,  chalk lithography,  アルビ、トゥールズ=ロートレック美術館
カフェ・コンセール「ディヴァン・ジャポネ」のポスター。

黒のドレス、黒の帽子、右手に閉じた黒の扇を持っているのがジャヌ・アヴリル。右側のシルクハットに片眼鏡の紳士は音楽批評家エドゥワール・デュジャルダン。『ワグナー評論』などを主宰した。

舞台で立っている、首から下しか見えない女性は歌手イヴェット・ギルベール。トレードマークの黒の手袋で分かる。

コントラバスも一部分しか見えていないし、舞台の指揮者も手しかない。

こういった大胆な省略、画面構成、全体の落ち着いた色調。とても魅力ある作品。

ジャヌ・アヴリル
1893  130x90cm  トゥルーズ・ロートレック美術館  アルビ
ジャヌ・アヴリルは1890年、22歳でムーラン・ルージュにデビューした。
最初、ラ・グーリューと組んで踊っていたが、反りが合わず別れた。その後はジャンダン・ド・パリ、ディヴァン・ジャポネ、フォリ・ベルジュールなどで踊っていた。
引退後は画家モーリス・ビエと結婚。1923年に没した。

このポスターはジャルダン・ド・パリにジャヌ・アヴリルがデビューしたのを記念して制作された。

Portrait of Monsieur Delaporte at the Jardin de Paris
1893, oil on paper on wood, Ny-Carlsberg Glyptothek, Copenhagen

Portrait of Marcelle
1893-94, oil on cardboard, Musee Toulouse-Lautrec, Albi

ムーラン街
1894  Oil on cardboard  82 x 59.5 cm  ワシントン・ナショナル・ギャラリー
娼婦たちは、娼婦の義務として、医師の検診を受けるために並んでいる。

背景が燃えるような赤で、残酷である。過酷な現実をそのまま描いている。


2人の女友達
1894 Oil on cardboard  48 x 34.5 cm  Musee Toulouse-Lautrec, Albi

半裸の娼婦たち
1894 Oil on cardboard 54 x 39 cm  Musee Toulouse-Lautrec, Albi

靴下をはく女
1894  Oil on cardboard  58 x 48 cm  パリ、オルセー美術館

カーテン・コールをうけるイヴェット・ギルベール(歌手)
1894  Oil over reproduction on photographic paper  48 x 28 cm  アルビ、トゥールズ=ロートレック美術館

『ラ・ルヴュ・ブランシュ』誌
1895, chalk lithography, アルビ、トゥールズ=ロートレック美術館
象徴派の文芸誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ』のためのポスター。ナタンソン兄弟が主宰していた。

モデルはそのタデ・ナタンソンの妻ミシア。当時、才色兼備をうたわれていた。


ナポレオン・ボナパルト
1895, lithograph, Free Library, Philadelphia

Alone
1896 Oil on board  31 x 40 cm   Musee D'Orsay, Paris

化粧
1896 67 x 54 cm  パリ、オルセー美術館
斜め後ろの上方から視点を取っている。

ドガなどがこの特異な視点の取り方をしているので、その影響もあろう。日本の浮世絵なども示唆を与えている。

Study for "Elles" (Woman in a Corset),
1896, black and blue chalk and oil on paper laid down on canvas, Musee de Augustins, Toulouse

At the Cafe The Customer and the Anemic Cashie
1898-1899  Kunsthaus, Zurich



ホームページ | 西洋絵画 | 女流画家 | 聖書の物語 | ギリシャ神話