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グスタフ・クリムト 
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 (1862-1918)  オーストリア  世紀末芸術、ユーゲントシュティル(アール・ヌーボー)

1862年、ウィーン郊外バウムガルテンに生まれた。

クリムトの生きた時代は、オーストリア・ハンガリー帝国、ハプスブルク帝国の最後の時代だった。
フランツ・ヨーゼフ皇帝は1848年、18歳で即位。革命の激動期であった。1916年、第一次大戦中に亡くなるまで、帝国を支えた。ヨーゼフ皇帝の死後2年で、1918年、この大帝国は崩壊する。クリムトの死と同じ年である。
クリムトが生まれた1862年は皇帝フランツ・ヨーゼフはエリザベートを迎え、王子が生まれて間もない頃である。帝国は崩壊の兆しどころか、ウィーン市の環状大通り、リング・シュトラーセを作る「リング」計画が発足しはじめるくらい、ウィーンは賑わっていた。実際、ウィーン市は人口の爆発的増加を受け入れるため、大都市改造計画が必要だったのだ。

クリムトの父親はボヘミヤ地方出身で、金銀の線刻師であった。職人の息子は職人になる、というのが当たり前の時代であった。クリムトと弟エルンスト、ゲオルクも装飾工芸家になった。

1873年、経済恐慌で、一家はパンもない状態だった。
クリムトは奨学金を得て、工芸学校へ進学できたのだ。2人の弟もこの学校へ入学している。兄弟たちは肖像画を描くアルバイトをしていたらい。

卒業後、クリムトと級友のマッチュ、のちには弟たちを加えて共同制作に従事する。最初の仕事は、フランツ・ヨーゼフ皇帝夫妻の銀婚式の祝賀行列だった。クリムトたちは装飾壁画や緞帳デザインなどであった。

時代は、リング計画の工事とともに市街地の開発、劇場やバーの建築ラッシュの中、芸術家たちにとって、才能さえあれば、決して過酷なものではなかった。ウィーンだけでなく、ボヘミヤやモラヴィアなど帝国中で建築が隆盛だった。

ブルグ劇場の階段装飾壁画において、皇帝フランツ・ヨーゼフから勲章を貰った。旧ブルグ劇場の観客席を描いた下絵も、皇帝から賞金を得た。クリムト28歳の時である。

1894年、教育省からウィーン大学の大講堂の天井画の正式な注文を受ける。この天井画は二重の悲劇に見舞われる。ひとつは、完成後、習作とともに、第二次大戦中、インメンドルフでナチスの手により焼失。医学の習作のみ現存する。
そして次は、『哲学』『医学』『法学』と、発表されるたびに、その表現が大論争を巻き起こした。作品自体への避難であった。クリムトはこの制作を辞退しようとしたが、官僚たちに一旦、止められた。しかし非難は集中していくばかり。結局、度重なる検閲に嫌気がさして、報酬をすべて文部省に返金し、その完成を放棄した。1905年の頃であった。
閉鎖的なオーストリアの美術家組合が、前衛画家たちの作品を組合展示会場から締め出した。この展示会場は街で唯一のものであった。組合員は国外での作品発表さえ禁止された。
このやり方に激昂した40人ほどの画家たちが、グループを結成。
1897年、こうしてウィーン分離派が設立された。初代会長がクリムトであった。
分離派第一回展は大成功であった。

それと並行して、同時期に、ユーゲントシュティール(アール・ヌーボー)を取り入れた作品に移行していく。
1903年、イタリアのラヴェンダで、ビザンツ美術に触れてからは、金色を大胆に使う作品で、クリムトのスタイルを確立した。

1902に制作した壁画、ベートーベン・フリーズがスキャンダルになり、結局、1905年に分離派を脱退。

翌年1906年、オーストリア芸術家同盟を結成。 1913年ころからスラブ系や東洋系の装飾要素も取り入れるようになる。

エゴン・シスレーやオスカー・ココシュカへ与えた影響も大きい。

クリムト 「寓話」 1883 | 84.5x117cm | ウィーン市立歴史美術館
クリムト 「寓話」 1883 | 84.5x117cm | ウィーン市立歴史美術館 裸婦の左が「ライオンとねずみ」(イソップ童話)。
右は「狐とコウノトリ」(ラ・フォンテーヌ「寓話」より)
中央の裸婦はペンを持っているので寓話の擬人像。巻物は「寓話」を意味している。

クリムト 「牧歌」 1884 | 49.7x74cm |ウィーン市立歴史美術館

クリムト 「ヘレネ・クリムトの肖像」 1893
クリムト 「ヘレネ・クリムトの肖像」 1893

クリムト 「 音楽T 」 1895 、Oil on canvas、37 x 45 cm 、ミュンヘン、ノイエ・ピナコテーク
 *

1895、60x44cm、ウィーン市立博物館
恋人たちのロマンティックな抱擁がある。上方には、子供、成熟した女性、老いた男の頭部が漂っている。

「ジュニアス」の寓意のためのスケッチ
1896

「悲劇」の寓意
1897  ウィーン美術史美術館

ヒュギェイア (ウィーン大学祝典講堂天井画、「医学」の一部
1897-98 Oil on canvas  72 x 55 cm 
ウィーン大学大講堂の天井画として教育省から注文を受けた。
構想された三部作の一つである『医学』のための習作。

完成作は、1945年、インメンドルフ城で焼失。

他の『哲学』『法学』は完成作も習作も焼失。

「ヒュギェイア」はギリシャ神話の健康の化身   1945年、焼失

焼失した『医学』の完成作では、医学の保護女神ヒュゲエイアが盃を持ち、腕には蛇がまとわりついている。ギリシャ神話でヒュゲエイアは死の沼に蛇になって生まれる。
背後には、病人や骸骨が漂っている。

およそ学問の殿堂にふさわしくない、合理性を欠いた画面。

クリムトは理性が対象とすべきものは、非合理の世界だと示したかった。


パラス・アテナ                    
1898  Oil on canvas、84 x 42 cm 、ウィーン市立博物館
右手に勝利の女神ニケを持っている

叡智とは程遠い、妖しい目は、クリムトのファムファタル像である。

クノップフ、シュトゥックの影響が伺える

主題解説:ギリシャ神話へ行く

ローマ名ミネルヴァ
ゼウスとメティスの娘。知恵の女神。

あるとき、ゼウスは巨人族(テイタン)の女神メティス(思慮)に夢中になっていた。

メティスは逃げたが、ゼウスには抗しきれず、ゼウスの子を宿してしまった。
メティスには、生んだ子供が、父親を殺すであろうという予言がなされていた。

そこでゼウスはメティスを丸ごと飲み込んでしまった。

すると激しい頭痛に見舞われた。ヘパイトス(鍛冶の神、工芸家の主、アフロディテの夫)がゼウスを助けるために、頭を割った。すると、ゼウスの頭から乙女が生まれた。アテナである。

ゼウスの頭から生まれたアテナは、知恵の女神で、人々を賢くするため尽力した。

男女の技術の守護神で、農業、航海術、あるいは機織り、裁縫などを司っていた。

アテナの発明品には戦争の道具もあり、アテナもいつも兜、胸板をつけ、槍と盾を手にしている。

しかし、彼女の戦争はあくまでも、防御的なものであり、軍神アレスのように戦争を推し進めるのではなく、平和を回復するためのものであった。

その戦いの知恵は、戦略となり、軍神アレスにさえ勝つといわれていた。

知的な活動のパトロンであり、アテナイの守護神である。処女神パラス・アテナと呼ばれ、永遠に処女であった。

学者は啓示を求め、発明家は霊感を求め、裁判官は明晰と公平を求め彼女に祈った。軍の隊長も戦術を磨くために彼女に祈った。

オリーヴの木が聖木で、ふくろうが聖鳥である。

水流
1898
水は、古くから生命の源泉、性の象徴として描かれてきた。

自然の流れに逆らうことなく、目を見開いたまま流されていく女性たち。

画面右下に、そんな女性たちをびっくりした表情で見上げている男性がいる。

Poster for the 1st Secession exhibition
1898 リトグラフ 62 x 43 cm 個人蔵

ソニア・クニップス
1898, oil on canvas、145x145cm、ウィーン、オーストリア美術館
肖像画の伝統的手法は、斜めを向いた腰から上の半身像が画面の中央にある、というもの。

クリムトは、正方形の画面に、横向きのシルエット、右上方に顔、背後に花。明らかに装飾的な効果がいっぱいである。

ピンクの衣装は華やかで、背景を暗くし、左上にも花が一輪ある。これはイギリスのホィッスラーとジャポニズムの影響だそう。

クニップスが右手に持っている赤い手帳は、クリムトのスケッチ張だが、これを持つことで、バラ色の効果が高くなっている。

クニップフはこの肖像画が描かれた後、大実業家と結婚。この絵は大邸宅の食堂の壁面を飾っていた。

ピアノを弾くシューベルト
1899
 1945年 インメンドルフ城の火災のため焼失

第二次大戦中、多くのクリムトの絵は、インメンドルフ城に避難していた。

ナチスの親衛隊が撤退の途中、城が敵の手に渡らないよう、城に火を付けた。

クリムト 「 穏やかな池」 1899
クリムト 「 穏やかな池」 1899

裸の真理
1899、Oil on canvas 、252 x 56 cm、ウィーン国立図書館演劇コレクション
真理を象徴する裸の女神ヌーダ・ウェリタス

足元に蛇がまとわりついているのは、ファム・ファタルの表現。


ラファエル前派の影響で、画面の装飾の延長で、額縁を自作。

白樺のある農家
1900  80 x 80 cm   オーストリア美術館  ウィーン
世紀末ウィーンの喧騒、華やかな女たち、その衣装。あらゆる対人関係。

クリムトは完璧な隠れ家を持っていた。

クリムト 「 アッター湖」 1900
クリムト 「 アッター湖」 1900

アッター湖の島
1901  100 x 100 cm   個人蔵
ウィーンからザルツブルクへ向かうヘーレン山脈の山々の間にいくつか湖が点在するが、その中で一番大きな湖がアッター湖(カンマー湖)。

クリムトはこの湖畔に別荘を持っていた。約20年間、毎年夏にはエミリー・フレーゲたちと訪れた。

クリムト 「 金魚」 1901-02
クリムト 「 金魚」 1901-02

ユディトT                
1901  Oil on canvas 、153 x 133 cm   ウィーン   オーストリア美術館
主題解説:ユディトとホロフェrネス

ユディトはベツリアの町に住む、裕福な未亡人であった。大変に美しく、神への信仰が厚かった。ホロフェルネス率いるアッシリア軍がベツリアの町を包囲した。

ユディトは召使とともにはアッシリアの陣地へ行った。ユディトは取り囲まれているベツリアの町について、もう神の加護のない町であるから、攻略方法を教えると言って敵将ホロフェルネスに近づいた。

ユディトの美しさに気を許したホロフェルネスは彼女を酒宴に招いた。
ユディトはホロフェルネスが酔いつぶれて寝込んでしまうのを待ち、首を切り落とした。

ユディトはホロフェルネスの首をベツレアの町に持ち帰った。将軍のいないアッシリア軍はあっさりと敗退した。

ベートーヴェン・フリーズ
1902  オーストリア美術館 ウィーン
1903年のウィーン分離派、第14回展で「ベートーヴェン・フリーズ」が除幕された。
しかし、楽聖ベートーヴェンへの冒涜だとして、非難された。
結局、分離派からクリムト・グループの脱退ということになった。

幸福への憧憬  第一壁面

敵対する力  (第二壁面)一部 (ゴルゴン3姉妹)
クリムト 「ベートーヴェン・フリーズ  敵対する力(第二壁面)一部 (ゴルゴン3姉妹)」 1893

歓喜  第3壁面
ポエジー



ぶな林T
1902, oil on canvas、100x100cm、ドレスデン国立絵画館

エミリー・フレーゲ
1902  Oil on canvas 、181 x 66.5 cm   ウィーン市立博物館 
クリムトの愛人。

衣装に思い切った装飾的デザインを施した最初の作品。

フレーゲはオート・クチュール・サロンを持っていたが、クリムトはフレーゲのお店のために衣装をデザインしている。


白樺の林
1903  110 x 110 cm   オーストリア美術館 ウィーン

クリムト 「 雷雨の接近 (大きなポプラ II)」 1903
クリムト 「 雷雨の接近 (大きなポプラ II)」 1903

希望T
1903、Oil on canvas、189 x 67 cm 、オタワ、カナダ国立美術館

水蛇T
1904-07、Watercolors and gold paint on parchment、50 x 20 cm、ウィーン、オーストリア美術館
水蛇Uの前段階の絵。


水蛇U
1904-07 Oil on canvas 80 x 145 cm、個人蔵
1904年、分離派展に出品。1907年、ミートケ画廊に再出品された。


『水蛇T』『水蛇U』はジャポニズムの装飾構図の影響が強い。

1873年のウィーン万国博覧会以来、ウィーンでも日本の屏風、浮世絵、蒔絵、着物などの日本美術が紹介され、クリムトも小さなコレクションを持っていた。


人生の三段階
1905 Oil on canvas、178 x 198 cm ローマ国立近代美術館

クリムト 「 樹々の下の薔薇」 1905
クリムト 「 樹々の下の薔薇」 1905

マルガレート・ストンボロ=ヴィトゲンシュタイン
1905, oil on canvas、180x90cm ,ミュンヘン、ノイエ・ピナコテーク
著名な哲学者ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの姉。

祝婚肖像画。

注文肖像画のため、写実性を求められるので、顔は印象派風、ホイッスラー風の柔らかいタッチで描かれている

しかし、背景は装飾性があり、平面化作業されている。

衣装には華麗な花模様が施されているが、この花模様こそが、当時ウィーンでとても流行っていて、上流階級の婦人がこぞってクリムトに肖像画を依頼した訳である。

農家の庭
1905-06  110 x 110 cm   プラハ国立美術館
1905〜6年くらいから、農家の庭の花園を描いている。


ヒマワリの咲く農家の庭
1905-16  110 x 110 cm   オーストリア美術館  ウィーン
 *

クリムト 「フリッツア・リードラー」 1906、Oil on canvas、153 x 133 cm、ウィーン、オーストリア美術館
背景の平面化、装飾化、幾何学的図形化がはっきりしてくる。

普通に写実的なのが顔と手だけに限定されてきている。

モデルのフリッツァ・リートラーはクリムトのパトロンの一人。ベルリンの婦人で、その知的な容貌が適格に描かれている。

ベラスケスの『マリア・テレーサ王女』の髪型をイメージしてしまうような、頭部の櫛形の模様。髪飾りのようでもあり、壁の装飾のようでもあるが、クリムト特有の装飾である。

ヒマワリ
1906-07, oil on canvas、110x110cm、個人蔵

けしの咲く野
1907  110 x 110 cm   オーストリア美術館  、ウィーン

クリムト 「 水蛇 II」 1907
クリムト 「 水蛇 II」 1907

アデーレ・ブロッホ=バウアーT
1907、Oil and gold on canvas、138 x 138 cm、ウィーン、オーストリア美術館
モデルのアデーレの顔だけが写実的。
全画面、装飾的な幻想が漂う豪華な肖像画。

この作品は「ビザンティン風」と呼ばれ、クリムトの画風を特徴づけるものとなっている。

日本の伝統的工芸品の紋様など日本的な金の使用のしかたである。

衣装の模様に「眼」があるが、これはエジプトの護符。クリムトの作品に多く登場してくる模様。

希望U
1907/08、Oil and gold on canvas、110 x 110 cm、ニューヨーク近代美術館

接吻
1907-08  Oil and gold on canvas、180 x 180 cm  ウィーン   オーストリア美術館
 

ダナエ          
1907-08  Oil on canvas、77 x 83 cm  グラーツ、個人蔵
主題解説:ギリシャ神話へ行く

アルゴスはペロポネソス半島にある国である。そこの王アクリシオスは、ある予言を与えられた。

「お前に男の子は授からない。それどころか、お前は孫に殺されるだろう。」

アクリシス王には一人娘のダナエがいる。孫が生まれないようにしなくてはならない。

王はダナエを青銅の扉のついた塔に閉じ込めた。男が接近しないように。

しかし、ダナエは美しかった。ゼウスの目にとまってしまったのである。

ダナエは堅固な土牢に居て、直接会うことはできない。

ゼウスは、ある夜、黄金の雨の雫に姿を変えて、ダナエと交わってしまったのである。

閉じ込めておいたはずのダナエに、男の子が生まれた。ペルセウスである。

アクリシオス王は苦悩した。生まれた男の子、ペルセウスに、アクリシオス王は殺される。予言である。

この子を殺さなければならない。

しかし、やはり殺すことはできない。王は娘ダナエと孫を、箱舟に閉じ込め、海に流した。

箱舟はクレタ島の北にあるセリポス島に流れ着いた。二人は漁師に拾われた。その島の王ポリュデクテスはダナエを一目見て、愛するようになった。

ユディトU            主題解説:聖書の物語へ行く
1909  Oil on canvas 、178 x 46 cm    ヴェネツィア近代美術館

帽子と羽毛の襟巻の婦人
1909    69 x 55 cm   オーストリア美術館 ウィーン

アッター湖畔のカンマー城
1910  110 x 110 cm   オーストリア美術館  ウィーン

黒の羽根帽子
1910  79 x 63 cm   個人蔵
黄金色の装飾が極点に達した後に、再び色彩の明暗を求めた作品。

最新モードのモデル。黒っぽい羽帽子、モデルのポーズや表情がとても強く、アクセントとなっている。

この頃は「世紀末」そのものが終末期になり、化粧や衣装が次第に単純化され、鋭角化していき、その代りに華麗さを失っていく。


ストクレ邸フリーズのための下絵
1911、 ブリュッセル、ストクレ邸、白大理石の壁面 / 下絵はウィーン、オーストリア工芸美術館
ストックレ夫妻が建築家ヨーゼフ・ホフマンに、ブリュッセルにある自宅の建築依頼をした。
ホフマンは、クリムトとともに「ウィーン分離派」の創設者の一人であり、「ウィーン工房」の主催者でもあった。

ホフマンから、このストックレ邸の内部装飾を依頼されたクリムトは、9点の下絵を描いた。

この下絵を元に、ウィーン工房が実際のストックレ邸食堂のモザイクが施工された。
期待 (左壁面) 193x115cm
   

生命の木  193 x 102 cm

成就(抱擁)  左壁面   194 x 121 cm
  



アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像U
1912   190 x 120 cm   オーストラリア美術館  ウィーン
「東洋風七宝」の作風に入っていた時期。

1907年に描かれた、同じアデーレの黄金の肖像画と比較すると、曲線と直線を使用した装飾は同じようだが、線はずっと自由になり、色彩は艶やかで、花や中国風の装飾が、活気ある画面になっている。


メーダ・プリマヴェージ
1912、Oil on canvas、150 x 101.5 cm 、ニューヨーク、メトロポリタン美術館
20世紀初頭、ウィーンのデザイン界を風靡したウィーン工房の共同所有者オットー・プリマヴェージの娘。母親は女優。

メーダはまだ9歳である。

早熟でおしゃれで、意思の強い顔立ちは「これから生きる少女」という感じが出ている。

アッター湖畔の山番小舎、ヴァイセンバッハ
1912  110 x 110 cm   個人蔵

りんごの木
1912   110 x 110 cm   オーストリア美術館  ウィーン

クリムト 「カンマー城公園の並木道」 1912, oil on canvas、110x110cm 、ウィーン、オーストリア美術館
アッター湖畔のカンマー城の裏側の入り口。

ここではゴッホの影響が著しい。


ガルダ湖畔のマルセジーネ (イタリア)
1913   (1945年 インメンドルフ城の火災のため焼失)
幾何学的に家々が連なっている。

クリムトはエゴン・シーレとともに、キュビズムを画風に消化しようとしていた時期。


エリザベート・バッホーエン=エヒト男爵夫人
1914, oil on canvas、ジュネーヴ、レーデラー・コレクション

クリムト 「 アッター湖畔のリッツベルク」 1914-15
クリムト 「 アッター湖畔のリッツベルク」 1914-15

フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像
1916  168 x 130 cm  個人蔵
ウィーンの大きなバーの女性オーナーの娘。

エゴン・シーレにも肖像画を描いてもらっている。

シェーンブルン公園
1916  110 x 110 cm   個人蔵
ウィーン郊外、マリア・テレジアの時代に建てられたロココ風の宮殿シェーンブルン。
かつて、ハプスブルク家の夏の離宮、ナポレオンも滞在したことがある。

現在は公園となっている。

死と生
1916 、Oil on canvas、178 x 198 cm ウィーン、レオポルト・コレクション

女友だち
1916-17    99 x 99 cm   
1945年、インメンドルフ城にて焼失



なんとなく悪徳の香りが漂う作品。

一人の女性の中で共存する娼婦性と淑徳とを示すかのような作品でもある。

アッター湖畔のウンターラッハの山腹の森
1917   110 x 110 cm   

クリムト 「花嫁」1917−18 | 173x198cm | オーストリア美術館、ウィーン

婦人の肖像
1917-18  180 x 90 cm   ヴォルフガンク=グルリット美術館 

クリムト 「アダムとエヴァ」  1917-18, oil on canvas、ウィーン、オーストリア美術館

赤ん坊
1917-18, unfinished, oil on canvas
 
 
 

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