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ジャック・ルイ・ダヴィッド
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(1748-1825)
フランス    新古典主義 

フランス革命以前から、帝政時代まで、フランス美術界で活躍した。

パリに生まれる。早くに両親を亡くし、叔父たちに育てられた。

絵画はヴィアンに学んだ。

1774年、ローマ賞を得て、翌年から5年間イタリアに滞在した。この時期に、古代を主題とした大作を多く描いた。

「理想美」に最も近いのが古代芸術である、という考えに傾いた。
ダヴィッドほど、政治に関わった画家はいない。

ダヴィッドは過激な革命派であった。フランス革命の中、ロベスピエールの失脚後、捕らえられて、リュクサンブール宮へ幽閉された。

ナポレオン帝政に参加し、その記念碑的な作品を多く残した。しかし、ナポレオン失脚と同時に、ブリュッセルに亡命し、不遇のうちに1825年、亡くなる。

ダヴィッドの門下生では、ジェラール、ジロデ、グロが代表的であるが、彼らはロマン派を予告するような表現を見せている。

マルスとミネルヴァの戦い
1771  Oil on canvas  146 x 181 cm  Musee du Petit Palais, Paris, France

セネカの死
1771  146 x 181 cm  ルーヴル美術館

アンティオコスとストラトニケ
1774 Oil on canvas  120.02 x 134.94 cm   エコール・デ・ボザール  パリ フランス

聖ロクス
1780 Oil on wood 260 x 195 cm  マルセイユ美術館  フランス
聖ロクス(1293-1327)は疫病患者の看護に尽力したキリスト教の聖人。

1720年、マルセイユにペストが蔓延した。それを記念して衛生局の依頼で描いた。

施しを受けるベリサリウス 
1781, oil on canvas  195.8 x 312.1 cm  リール美術館
ダヴィッドが、イタリアからパリに戻っての第一作目。


ベリサリウスは、ビザンティン皇帝ユスティニアヌス配下の将軍。ゴート人から、イタリアの大部分を取り戻した。

叛逆罪の罪で投獄されるが、後に無実が晴らされる。

年老いてからは、盲目となり、コンスターチノープルで物乞いをするようになる。

絵画では、ベリサリウスは、物乞いの器を持ち、ある兵士が、彼の正体を認める、という場面が一般的である。

17−8世紀、イタリア、北ヨーロッパにおいて、よく描かれた主題である。

ポトッキ伯爵
1781 Oil on canvas  304 x 218 cm  ワルシャワ国立美術館 ポーランド
美術愛好家。ポーランド貴族。

キリストの磔刑
1782 Oil on canvas 276 x 188 cm  サン・ヴァンサン聖堂  マコン、イタリア

アンドロマケの悲嘆
1783 Oil on canvas 275 x 203 cm  ルーヴル美術館  パリ  フランス
アカデミー入会作品

アルフォンス・ルロワ
1783 Oil on canvas  72 x 91 cm
パリで評判高かった産婦人科の医者。

ダヴィッドの夫人の出産を担当した。

ホラテウス兄弟の誓い
1784  Oil on canvas 330 x 425 cm  ルーブル美術館
二度目のローマ滞在中に描いた。この絵によって、様式を確立した。

主題の内容:

ローマ人とアルバ人が戦争を始めそうになった。しかし、双方から、三人ずつ代表が出て、戦うことになった。

ローマからはホラティウス兄弟。アルバ人からはクリアトゥス兄弟が出た。

結局、ローマのホラティウス兄弟一人が生き残り、ローマの勝利となった。

しかし、後に、アルバ人のクリアトゥス兄弟の一人と、ホラティウスの妹が婚約していたことを知る。それを知ったホラティウスは妹を殺してしまう。

ホラティウスは裁判にかけられた。しかし、父親の哀訴で、執行猶予となる。

絵画では、16−7世紀、イタリアとアルプス以北で多く描かれた主題である。

古代ローマの勇気の象徴として描かれた。ホラティウス兄弟は、父親の前で、剣をかかげて、自己犠牲の宣誓を行う。

一方には、姉妹たちが描かれる。

戦いの場面も描かれることがあった。

ダヴィッドの絵では、中央に父親が三人の剣を掲げている。右側の三兄弟は腕を上げて、誓いをたてている。

左側に姉妹たちがいて、あきらめたような、かなしい姿を見せている。



ダヴィッドは、この作品と『ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち』のよって、革命勃発後、急進派ジャコバン党に受け入れられた。彼らは「愛国者」を自認していた。

ちなみに、愛国心というものは、このフランス革命で初めて使われたし、人々の概念ともなった。それまでは、人々はあまり、国家という意識がなかったのである。

作品自体は、王室の注文によって、革命以前に描かれたものである。

元来、王室をよくは思っていなかったダヴィッドであったが、これらの絵が、ダヴィッド自身を革命の渦中へと投じさせた、ともいえる。

ソクラテスの死
1787 Oil on canvas 129.5 x 196.2 cm   メトロポリタン美術館  ニューヨーク

ラヴォワジェ夫妻の肖像
1788, oil on canvas   メトロポリタン美術館  ニューヨーク
裕福な徴税請負人であり、近代科学の祖でもあるラヴォワジェ夫妻の肖像は、旧体制末期に描かれた。

夫のラヴォワジェは、空気と燃焼の本質を実験で明らかにした科学者である。テーブルには科学の実験道具が置かれている。

夫人は、ミューズ(詩人に霊感を与える)の伝統的な図像で描かれている。

二人は革命の嵐の中、処刑された。

パリスとヘレネの恋
1788  147x180cm   ルーヴル美術館 パリ
主題解説:ツキアノス『神々の対話』

パリスはトロイアの王子。山に捨てられて、羊飼いに育てられた。

のちにスパルタ王妃ヘレネをトロイアに連れて帰った。それがトロイア戦争の原因となる。

ブルートゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち
1789  Oil on canvas  323 x 422 cm  ルーブル美術館
紀元前6世紀、共和制ローマ史より

テニスコートの誓い
1791, pen washed with bistre with highlights of white on paper,  ヴェルサイユ宮国立美術館
18世紀後半のフランスは、絶対主義の弊害が著しくなる。

アンシャン・レジーム(旧体制)の体制下、国民の9割にあたる平民は、参政権もなく、重い税のため、生活は苦しかった。

加えて、啓蒙思想が広がり、自由と革新にあこがれる気風が育っていた。

当時、すでにイギリスでは立憲政治が確立され、アメリカ独立革命の成功が、大きな潮流となって、フランス革命をも引き起こした。

1789年、6月20日、第三身分(平民)は、国民会議と称し、ヴェルサイユ宮殿の近くのテニスコート場で、歴史的な、「テニスコートの誓い」を行った。

この誓いは、第三身分(平民)が、憲法が制定されるまで、解散しない、というものであった。

当然のことであるが、憲法を制定する、ということは、革命的行動であった。

このテニスコートの誓いを国王は弾圧したため、7月14日のヴァスティーユ牢獄の襲撃につながって行くのである。

その後混乱の末、8月26日、フランス人権宣言が出された。

マラーの死
1793 Oil on canvas, 165 x 128.3 cm  ブリュッセル王立美術館
シャルロット・コルデーに暗殺された、革命の指導者マラー。

マラーは、医師であった。それも、王の弟、アルトワ伯爵の親衛隊付きの医師であった。

しかし、その自由主義的な思想のために解雇された。フランス革命勃発とともに、ジャーナリストに転身した。

革命政府の中心、ジャコバン党はロベスピエールとともに、恐怖政治へと向かっていった。反対派を次々とギロチンへ送ったのである。

革命政府は、ブルジョワジー側に立つジロンド派と、下層民衆の側に立つ、ロベスピエールのジャコバン党とに分かれる。ロベスピエールは結局は、恐怖政治に陥ってしまった。

マラーを暗殺した、シャルロットは、当時25歳。ジロンド派のシンパであった。

彼女はジロンド派の人々の名前を教えると言って、マラーに近づき、入浴中のマラーを、ナイフで刺した。

マラーは皮膚病で、硫黄水の風呂に入って、仕事をするのが習慣であった。

マラーが手に持っているのは、面会を求めるシャルロットの手紙である。

マラーは実際、それほど整った顔立ちではなかったし、体格もダヴィッドの絵のように、立派ではなかった。

革命の殉教者としての英雄性を高めるため、さりげなく、工夫をしている。

ミケランジェロのピエタ同様、半身裸体で、片腕を垂らした姿である。

ダヴィッドの描いた「マラー」に永遠性があるのは、ミケランジェロのピエタと重なり合う、厳粛な永遠性を、みごとに表現しているからに他ならない。

バラの死
1794 Oil on canvas  119 x 156 cm  カルヴェ美術館  アヴィニョン フランス
ジョセフ・バラは14歳で、革命で犠牲になった。

ヤーコブス・ブラウ
1795  Oil on canvas  92 x 73 cm  ロンドン・ナショナル・ギャラリー
オランダ共和国成立に参加した政治運動家

メイエール氏
1795 Oil on canvas 116 x 90 cm  ルーヴル美術館
オランダ・フランスの条約締結の時に、ブラウとともにオランダ使節となった。

ヴェルニナック夫人
1798 - 1799  Oil on canvas  145 x 112 cm  ルーヴル美術館
ウジェーヌ・ドラクロワの姉

サビニの女たち
1799,  Louvre  ルーブル美術館
主題の英雄的性格がはっきりでるのは、ダヴィッドの歴史画の基本である。

主題:

「サビニの女たち」はローマ草創期の有名な伝説である。

ローマ市には、はじめ、女性がほとんどいなかった。ローマ市の創健者ロムルスは、祭りを口実にして、サビニ人を呼び集めた。

しかし、その祭りの最中、ロムルスの合図とともに、ローマの若者が群集になだれ込み、サビニ人の未婚の娘たちを奪い去った。

15世紀絵画では、男女が楽師や軽業師の芸を楽しんでいる場面、武装した男たちがサビニ人の娘たちをさらって行く場面などが描かれた。

バロック絵画では、女たちは涙ながらに、男たちに抱きかかえられていく場面が描かれた。

その後、サビニの軍勢はローマ市を襲った。

しかし、そのとき、不思議な光景となったのである。

連れ去られたサビニの娘たちは、ローマ人の夫へと、サビニ人の父親へと、死体の横たわる中、駆け回り、愛情の言葉で呼びかけていった。

そうすることで、両軍に平和がもたらされたのである。

レカミエ夫人
1800  Oil on canvas  244 x 75 cm  ルーブル美術館
当代随一の美人と謳われた夫人。

ダヴィッドはかなり多くの肖像画を残しているが、これは、経済的な理由によるものである。

しかし、肖像画は、堅苦しい理論にとらわれず、自由に描けるので、その才能を発揮することができる絵でもあった。

サン・ベルナール峠を越えるボナパルト
1800  マルメゾン宮国立美術館  リュエーユ=マルメゾン
テルミドールのクーデターで、粛清を続けていたジャコバン党は、断頭台へ上り、恐怖政治が終わった。

しかし、亡命貴族・王党派の揺さぶりは激しくなり、民衆は生活が苦しく、社会不安が続いた。

社会秩序を回復させるのは、軍隊しかなかった。そんな時であった。ナポレオンの登場である。
ウィーン美術史美術館  1801

皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠 
1806 and 1807 Oil on canvas 621 x 979 cm  ルーブル美術館 パリ


ナポレオンの皇帝就任を聞いて、『エロイカ行進曲』の献辞を破り捨てたのは、ベートーベンであった。

王制以上に強力な皇帝となったのである。革命に逆行していると失望したのは、多かった。

しかし、現代、我々が歴史を見るとき必要なものは、「その時代における可能性と限界」というものを考慮に入れる、ということである。

ナポレオンは、権力欲もあったろうし、政治的な野心もあったろう。負の部分も大きい。しかし、それを考えに入れたとしても、ナポレオンが行った改革は、功績と呼ぶにふさわしいものがある。

法律の整備、教育改革、学問・芸術の振興など、すべて近代的な改革であった。

美術の分野でいえば、ルーブル美術館が開設されたのは1793年、革命の最中である。それは、優れた美術作品を、広く一般に開放しようという理想からである。そして、ナポレオンは、そのことに、実質的な内容を与えていったのである。

皇帝という権力を駆使して、逆説的に革命を推し進めていったのは、ナポレオンである。

サッフォーとファオン
1809  Oil on canvas  225 x 262 cm  エルミタージュ美術館  サンクト・ペテルブルク  ロシア

  紀元前7世紀、ギリシャの女流詩人サッフォー。美青年ファオンに捧げる詩を作っている場面。

ロシア貴族ユスープフの注文でダヴィッドが制作したもの。

ナントのアントワーヌ・フランセ伯爵
1811  117 x 73 cm  ジャックマール=アンドレ美術館  パリ
ナントの関税局長官

書斎のナポレオン
1812 Oil on canvas  ワシントン・ナショナル・ギャラリー  ワシントンD.C.


ジェラール将軍
1816  197 x 136 cm  メトロポリタン美術館  ニューヨーク

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